2006年04月07日

●保延4年(1138) 「直実生誕、幼名弓矢丸」

 今から約八百六十年前、平家一族の平盛方が天皇の怒りに触れて罰を受けた。その子直定と母は都を逃れ、 縁をたよりに武蔵国の小沢大夫のもとに身を寄せていた。

 当時の関東平野は未開の原野が広がり、洪水になると荒川が北関東の平野を自由に気ままに流れた。直定が成長し、十六歳のとき、 武蔵国大里郡に猛熊が出没し、近隣の人々を悩ましていた。私市党の武士達は領内のこととて、 これを討ち取ろうと数度にわたり狩りをしていたが、巨大な猛熊のため討ち取ることができず、やむなく「熊を退治したものには、 私の党の旗頭となし、所領を与える」と高札を立てた。直定はこれを見て、「この地に来て、今所領する土地がない、良い機会である」 と武具で身をかため、熊のいる谷に出かけ、一矢で難なく討ち取り、約束の如く三百町歩の領地を得て、私市氏に属し、 ここに居宅を構えたと伝えられている。

 直実は1138年(保延4)、直定の3男として武州熊谷郷(現在の埼玉県熊谷市)に生まれる。 現在の熊谷寺が建っているところに熊谷家の館があったと伝えられている。
 幼いときのお名前は、弓矢丸。熊谷次郎直実、次郎というとおり次男であり、長男太郎直正(十八歳で病死)は体が弱く、 若くして亡くなってしう。またもう一人の兄は養子である。父直定も早くに(18歳で)亡くなり、 直実2歳のときに若くして熊谷家の家督を継ぐこととなる。幼少より弓矢の達人であり、性格は剛直であった。だが、いかんせん子供というか、 赤ん坊のようなものですので、叔父にあたる久下直光に世話になった。この久下直光との間に後々、 直実が出家する一因となる出来事が起こるのである。

 

●保元元年(1156) 「保元の乱、義朝に従う」

 直実19歳のとき、鳥羽法皇の崩御を機に、皇位継承争いが起こった。これに摂関家相続問題が絡み、上皇と天皇、 藤原家がそれぞれ武士団を従えて、保元の乱が勃発した。


 直実は源義朝に従い、多くの坂東武士とともに後白河天皇のもとに馳せ参じた。 勝つためには手段を選ばぬ骨肉相はむ源平の親子兄弟別かれての戦いは予想以上に厳しいものとなった。結果は、 後白河天皇方の勝利に終わったが、これより貴族社会から武家社会へと時は傾き、戦乱の世となっていった。源平の葛藤、戦乱によって、 いずれかが勝者となり敗者となる悲劇は、下級武士のみならず、一般庶民にいたるまで生じ始めたのである。

 

●平治年(1159) 「平治ノ乱、義朝に従い十七騎随一の名を得る」

 直定は二人の子があり、長男太郎直正(十八歳で病死)と次男次郎直実であった。早く父を失い、久下権守直光に養育された直実は、 幼少より弓矢の達人であり、性格は剛直であった。保元の乱に続いて、平治の乱には源氏に従い都に上り、各所の合戦に勇威をふるい、 一騎当千の高名をあげた。中でも、平治の乱には悪源太義平に従い、侍賢門十七騎の随一といわれた。
 しかし、戦さは平家方の勝利に終わり、大将の義朝も最期は救いを求めて頼った尾張の長田庄司忠到に欺かれ、湯殿で38歳の生涯を閉じた。 落武者となった直実は、昼は笹の下に隠れ、夜は間道を通り、ようやく熊谷へと到着したのである。

 

●任安2年(1167) 「京都大番役」

 大番役とは、諸国の武士が交替で上京し、皇居の警備の任につく、奈良時代より続く大宝律令に基づく地方武士の勤めである。 叔父の久下直光は、費用がかさむことと煩わしさのため、そして病気との理由で、幼少から養育した恩に報いよと、直実を大番役に立てた。

 

●任安2年(1167) 「平知盛に臣従する」

 都への憧れと、叔父久下直光へ機嫌がとれると喜んで引き受けた直実であったが、華やかな平家の武士に比べ、 大番役の武士たちは自ら用意した所持金で生活をまかなっていたため、日々の食料も十分ではなかった。また、人と人との関係も、 地位や財力がないと冷ややかであり、久下直光の代人である故に下人扱いされ、 都での生活も熊谷の生活と同じく甘いものではなかった

「新中納言知盛卿ニ属シ、多年ヲ送リヲワンヌ」(『吾妻鏡』)

 賞金目当てで参加した力くらべの相撲に参加した直実は、日頃、荒川の大石を相手に鍛えた腕力で、次から次へと10続けて投げ飛ばし、 その賞金を得たのである。これを見て、気品ある15、6の若い武士が直実に声をかけ、仕官を誘った。清盛の第4子平知盛であった。

●治承4年(1180)9月 「石橋山の合戦 」

 治承四年秋、前右兵衛佐頼朝が石橋山で旗揚げしたが、 相模の大庭三郎景親率いる三千余騎に攻め落とされた。このとき直実は大庭の催促によってやむなく頼朝の陣に弓を引いたが、 頼朝が土肥の椙山に難を逃れ、安房、上総にいたり、勢力を回復して武蔵国豊島原に陣をしき、関東の武士たちが源氏の応じた折、 直実も頼朝の陣に参加した。

 

●治承4年(1180)9月 「源頼朝ニ臣従、「ほやと向い鳩」の紋を賜ふ」

 大庭三郎景親に破れた頼朝は、数名の家臣と山腹の臥木の大洞に忍んでいた際に、直実と梶原景時に発見された。 もはやこれまでとと覚悟を決めた頼朝に、そのまま潜んでいるようにと告げ、辺りにあった宿り木(ほや)の枝をとって大洞の口を隠した。
 後からあらわれた大庭勢が疑わしくしていると、直実は「こんな朽木の中に源氏嫡流の佐殿が入られるはずはあらず」と大庭勢を制した。 そのとき、この朽木より2羽の鳩が飛び出したため、「野鳩がいるようなところに人はいないであろう」と納得し、 他を探しにその場を離れていったのである。
 テレビドラマなどでは、梶原景時公が頼朝公を助けたとよく描かれているが、『熊谷家文書』では、 直実が頼朝公を助けたのだと伝えられている。
 その証拠に、直実は後に頼朝公から陣幕を拝領しており、この陣幕には、ほやの木(宿り木)の上に鳩が向かい合って2羽とまっている、 「ほやに向かい鳩」という紋が染め抜いてある。これがこれ以後熊谷家の家紋となっていることから、頼朝公を助けたのは直実だ、 と伝えられている。
 また、後でのお話であるが、直実は頼朝公に対して何度か随分失礼なことをしております。ですが、ほとんどおとがめが無い。 そういったことから考えてみましても、やはり頼朝公を助けたのは直実であったのであろうと伝えられている。

 「源頼朝卿ハ石橋山ノ戦ニ破レシ時、伏木ノ内ニ隠レタリ。直実ハ蔦葛ヲ取ツテ頼朝ノ上ニ覆フ、ソノ後、木ノ中ヨリ鳩ガ出テキテ去ル。 敵ハコレヲ見テ、人無シト謂ヒ、兵ヲ引キ上ゲル。頼朝ハ直実ノ忠ニ感ジテ、蔦葛ヲ家紋トナサシム。」                              (『北条系図』)

 頼朝は、この危機から脱したのは八幡宮の御加護であるとし、その後、 御旗にも伊勢大神宮八幡大菩薩の文字の下に白鳩2羽を八文字に縫わせた。また、本陣の幕には、蔦車に八文字の鳩を染め抜いて用いた。 これを恩賞として直実に賜り、これにより熊谷家は、蔦に鳩を定紋としたのである。

 

●治承4年(1180)10月 「富士川の合戦」

 以仁王の「令旨」は諸国源氏の決起を促し、9月17日には信濃源氏木曽義仲が挙兵し、10日には甲斐源氏武田信義・信光が挙兵した。 直実は、頼朝軍の一武将としてこの富士川に控えた。

 源平両軍は富士川を挟んで対陣していた。10月20日、武田軍が平家の背後に廻るため河口付近を渡ろうとしたとき、 その騒ぎに驚いた水鳥たちが数万羽飛び立った。これを大敵来襲と勘違いした平家軍は、慌てふためき逃げまどい、 壊滅状態に陥り敗走したのである。

 

●治承4年(1180)11月 「常陸国攻め、先陣の巧(一騎当千)を得る」

 慌てて敗走する平家に対し、頼朝は冷静であった。直ちに追撃、上洛はせず、鎌倉背後の常陸国佐竹太郎義政・ 秀義を平定する指示を出した。佐竹氏の勢力は領外にも及んでおり、またその郎党は国中に拡がり、平家に恩顧を抱いている者も多かった。
 11月4日、険しい絶壁を利用した山頂に建つ金砂山城に、直実は平山武者所季重とともに先頭で攻め入った。

「十一月七日 乙卯 軍兵ノ中、熊谷二郎直実、平山武者所季重、殊ニ勲功アリ。 所々ニオイテ先登ニ進ミ、サラニ身命ヲ顧ミス、多クノ凶徒ノ首ヲ獲タリ。ヨツテソノ賞傍輩ニ抽ンツヘキノ旨、直ニ仰セ下サルト云々。」  (『吾妻鏡』)

 

●寿永元年(1182)6月 「熊谷郷地頭職任命」

 治承四年十一月にあった常陸佐竹氏の金砂山城攻めの合戦で、直実は抜群の功を挙げ、板東一の剛の者と称され、 熊谷地方の地頭職に任じられた。

「寿永元年六月五日 甲辰 熊谷二郎直実ハ、朝夕恪勤ノ忠ヲ励ムノミニ非ス、去ル治承四年、 佐竹冠者ヲ追討ノ時、殊ニ勲功ヲ施ス。其ノ武勇ヲ感セシメ給フニ依リ、武蔵国ノ旧領等、直光ノ押領ヲ停止シ、領掌ス可キノ由仰セ下サル。 而シテ直実此間在国シ、今日参上セシメテ、件ノ下文ヲ賜ハルト云々。
下ス、武蔵国熊谷郷二郎平直実ノ所。
定補スル所ノ事、
右件ノ所、且ハ相伝ナリ。久下権守直光ノ押領ノ事ヲ停止シ、直実ヲ以テ地頭ノ職ト為スト、成シ畢ンヌ。其ノ故、何ニトナレハ佐汰毛四郎、 常陸国奥郡花園山ニ楯籠リ鎌倉ヨリ責メ給フ時、其ノ日ノ合戦ニ、勝レテ前懸ケシ、一人当千ノ高名ヲ顕ハス。其ノ勧賞ニ、 件ノ熊谷郷ノ地頭職ニ成シ畢ンヌ。子々孫々、永代他ノ妨ケ有る可カラス。百姓等宜シク承知シ、敢テ遺失ス可カラス。故ニ下ス。
治承六年五月三十日」 
(『吾妻鏡』)

 名実ともに、年来の思いであった旧熊谷郷の所領は直実の手に戻ったのであるが、 この叔父久下直光との所領にまつわる争いはこの後も続き、建久3年に、ついに事件が起きるのであった。

 

 

●寿永3年(1184)1月 「宇治川の合戦」

 寿永3年1月、源義経のもと直実は嫡子直家とともに宇治川にて戦った。結果は義経軍の勝利に終わり、 平家を都から追い出して朝日将軍と名乗った源義仲は粟津松原にて追っ手の矢にてその生涯を閉じた。

 嫡子直家が矢傷を負うのは翌月2月、一ノ谷でのことである。先駆けの功をを焦る余り、直家は傷を負ってしまう。 直実は直家のことが心配でこの戦では十分な功を立てることができなかった。

 

●寿永3年(1184)2月 「無官太夫平敦盛を討ちとる」

 いくさに敗れ、平家の君達は助け船に乗ろうと、汀の方へと逃げていった。その中に、練貫に鶴を縫いあしらった直垂に、 萌黄の匂の鎧をつけ、鍬形をうった甲、黄金造りの太刀、切斑の矢、しげ藤の弓、 連銭葦毛なる馬に黄覆輪の鞍をいている武者一騎を直実は見つけた。


「あれは大将軍とこそ見まいらせ候へ。まさなうも敵にうしろを見せさせ給ふものかな。かへさせ給へ。」  

 

 直実にそう扇ぎをあげられると、その武者はとって返ってきた。格闘の末、直実は、とっておさえ、 頚をかかんと甲を押し上げてみると、我子小次郎くらいの年齢で、薄化粧し、容顔美麗にて、どこに刀を立てるたらよいのかと躊躇した。

「抑いかなるひとにてましまし候ぞ。名のらせ給へ、たすけまいらせん。 」と申せば、「汝は誰そ」ととひ給ふ。「物そのもので候はね共、武蔵国住人、熊谷次郎直実」と名のり申。 「さてはなんぢにあふてはなのるまじいぞ、なんぢがためにはよい敵ぞ。名のらずとも頚をとって人にとへ。見知らふずるぞ。」とぞの給ひける。

 武者がこう言うのを聞き、直実はこう言った。
 
「あっぱれ大将軍や、此人一人うちたてまつたり共、 負くべきいくさに勝べき様もなし。又うちたてまつらず共、勝津べきいくさにまくることよもあらじ。助けたてまつらばや。」
 
 小次郎が軽い傷を負っただけでも直実は心苦しく思うのに、この武者の父が、討たれたと聞いたらどれ程嘆かれることであろう、と思い、 見逃そうと考えたのである。
 しかし、後ろに、源氏方の武士たち五十騎ばかりがどんどん近づいてくるのを見ると、直実は涙をおさえ言った。
 
「たすけまいらせんとは存候へ共、御方の軍兵雲霞の如く候。 よものがれさせ給はじ。人手にかけまいらせんより、同じくは直実が手にかけまいらせて、後の御孝養をこそ仕候はめ。」と申しければ、 「ただ疾く疾く頚をとれ」とぞの給ひける。
 
 直実はあまりにもいとおしく思い、どこに刀をたてたらよいものかわからず、迷っていたが、そうしてもいられず、泣く泣く頚を落とした。
 
「あはれ、弓矢とる身ほど口惜かりけるものはなし。 武芸の家に生まれずば、何とてかかるうき目をばみるべき。なさけなうもうちたてまつる物かな。」
 
 しばらくたち、直実は、鎧直垂をとって頚を包もうとすると、錦の袋に入った笛が腰にさしてあるのに気づいた。
 
「あないとおし、この暁城のうちにて管弦し給ひつるは、 この人々にておはしけり。当時みかたに東国の勢なん万騎かあるらめども、いくさの陣へ笛もつ人はよもあらじ。上臈は猶もやさしかりけり。」
 
 九郎御曹司(源義経)の見参に入れるにあたって、これを見て涙を流さないという人はいなかった。後に聞くと、 修理太夫経盛の子息太夫敦盛ということで、生年十七とのことであった。笛は名を小枝といい、祖父忠盛が鳥羽院より給わり、 経盛が相伝されたものを敦盛が所持していたのであった。
 この一件により、以前より武士としての自分に無常を感じていた直実の発心のおもいはいっそう強いものとなったのである。
「平家物語」では次のように結んでいる。
 
「狂言綺語の理といひながら、遂に讃仏乗の因となるこそ哀なれ。」
 
参考:「平家物語」 日本古典文学大系 岩波書店発刊

 狂言綺語とは、常識を逸し、巧みに飾った言葉の意、讃仏乗とは、仏法の功徳を讃え、 広く人々を悟らせるという意味である。敦盛を討ったことが、いくら悲しくも美しく涙を誘う話であったとしても、 所詮は人を殺めたことに変わりはない。そのことが、直実が仏門に入ったきっかけとなったことは悲しいことである。 できれば他のことがきっかけで仏の道に入れればよかった。直実47歳のときのことである。


 

●寿永3年(1184)2月 「平経盛に遺品及び一文を送る(送リ状)」

 義経軍の一人として一ノ谷の合戦に参加した直実であったが、 須磨の浦で心ならずも討ち取った敦盛の顔が傷を負った嫡子直家と重なり、頭を離れないでいたいた。その悔悟のためか、 直実は義経に願って、敦盛の首とその遺品青葉笛をもらい請け、一紙の消息文をつけ、敦盛の父修理太夫経盛のもとへ送り届けた。

「直実謹ンデ言上ス
ハカラズモ此ノ君ト参会シ奉ル。呉王ハ勾践ヲ得テ、秦皇ガ燕丹ニ遇フニ、勝負ヲスグ決セントスルニ、ソノ容正シキフルマヒヲ拝スルニヨツテ、 俄ニ怨敵ノ思ヒヲ忘レ、武威ノ勇ヲ失ヒタリ。
 ノミナラウ、守護ヲ加ヘ奉ラント思ヒシガ、源氏大勢シ襲来シ来ル。時ニ源氏ヲ射ルトイヘドモ、彼ハ大勢、レハ無勢ナリ。樊カイ、 養由ガアツテモカナハズ。
 是ニ直実、タマタマ生ヲ弓馬ノ家ニ受ケ、幸ニ武勇国中ニカガヤキ、城ヲ落シ旗ヲ靡シ、敵ヲ虐シ、 天下無双ノ名ヲ得ルトイヘドモ蟷螂ガ車ヲ覆シ、螻蟻ガ岸ヲクヅスガ如ク、弓ヲ引キ、矢ヲ放ツテ、空シク命ヲ東軍ニ奪ハレ、 イタヅラニ名ヲ西海ノ彼ニ沈ムルコト、自他家ニ科スノ面目ニアラズ。
 シカルニ御君ノ御意ハ、早ク御命ヲ直実ニ給テ菩提ヲトムラフベシト仰セ下サル。依ツテ、タチマチノチマチノ落涙ヲオサヘ、 ハカラズシテ御首ヲ給リ畢ンヌ。恨メシ哉、此君直実ト悪縁ヲ結ビ奉ル。悲シキ哉、宿運久シク怨敵ノ害ヲナス。 シカリトイヘドモ飜ツテ逆縁ニアラザレバ、イカデカ互ニ生死ノ紲ヲモツテ、一蓮ノ実トナラン。
 シカラバ、則チ、偏ニ、閑居ノ地ヲシメシテ、ネンゴロニ御菩提ヲ祈リ奉ルベシ。直実ガ申スコトノ真偽、後聞ニ其ノ隠レ無ク候。 此ノ趣ヲモツテ御披露洩シアルベク候。   恐惶謹言
 二月十三日     直 実

進上 平内左衛門尉殿   」

 

 

 

●寿永3年(1184)2月 「平経盛より礼文が届く(返シ状)」

 末子の敦盛のことを、殊のほか案じていた修理太夫経盛は、御首、遺物、書状を受け、「ありがたきかな、かかる人の手に討たれしば」 と、返書をしたためた。

「今月七日、摂州一ノ谷に於いて敦盛を討たれ死骸並びに遺物送り給はり畢んぬ、花落の故郷を出で、各々西海の波の上に漂ひしより、 以来運命の尽きる事、始めて思ひ驚くべきに非ず、又戦場の上に望んで何ぞ二度帰る事を思んや、生者必滅は穢土の習ひ、老少不定は常の事也、 然りといへども親となり子となる事先世の契約浅からず、釈尊も御子羅喉羅尊者を悲しみ給ふ、応神権化猶以て斯くの如し、 況や底下白地の凡夫に於いておや、然るに去る七日、打ち立し今日に至るまでその俤げ未だ身を離れず、来燕囀づると雖も其の声聞く事なく、 帰雁翅を双へて飛び帰ると雖も音信を通ぜず、必定討たるヽの由伝え承ると雖も未だ其の実否を聞かざるの間、何ぞ風の便りに其の音信を聞かん、 天を仰ぎ地に臥して神仏に祈誓し奉り感応を相待つ処、七ヶ日の内彼の死骸を見る事を得たり、是れ即ち神仏の与ふる所也、然る間、 内信心弥々肝に銘じ、外感涙之れを増す心を催し袖を浸す、但し生きて二度び帰り来るが如し、又是則ち相活きるに同じ、 抑々貴辺の報恩に非んば争で之を見る事を得んや、一門風塵皆以て之を捨つ、況や怨敵をや、和漢両朝を尋るに古今未だ其の例を聞かず、 貴恩の高き事須弥頗る下くし、報恩深き事蒼海還りて浅し、進んで之に酬いる未来永々たり、退いて然して報ずるに過去遠々たり、 万端多しと雖も筆紙に尽くし難し、併せて之を察せよ。
        恐惶謹言
 二月十四日
熊谷二郎殿 御返事    」
(当寺什物『経盛返状』)

 

 

●文治元年(1185) 「吉水の禅房、法然上人を訪ねる」

 「武蔵国の御家人、熊谷の次郎直實は、平家追討のとき、所々の合戦に忠をいたし、 名をあげしかば、武勇の道ならびなかりき。しかるに宿善のうちにもよをしけるにや、幕下将軍をうらみ申事ありて、心ををこし、出家して、 蓮生と申けるが、聖覚法印の房にたづねゆきて、後生菩提の事をたづね申けるに、さようの事は法然上人に、たづね申ベしと申されければ、 上人の御庵室に参じにけり。」 (『法然上人絵伝(四十八巻伝)』第二十七巻)

 これによると、蓮生の出家の原因は将軍(源頼朝)との関係にあるというのである。『平家物語』などでよく知られているような、 平敦盛を心ならずも討ち取ったためなどということは一言も書かれていない。つまり、蓮生の出家の直接の原因は『吾妻鏡』 にも記載されているように、所領争いの果ての始末なのである。ただ、敦盛を討ち取ったことなども影響を与えてないとは言えない。 こんなことまでしたのに、こんな仕打ちを受けるのか、という何ともやるせない思いが頭の中を占めたのが本当のところであろう。 なにはともあれ、このような経過を経て、直実は出家することとなったのである。

 さて、いざ出家といっても直実はどうしたらよいのか分かるはずもなく、以前知人から紹介された聖覚法印(一説では、 聖覚法印の実の父であり法然上人の弟子でもある澄憲法印とも言われている)を訪ねるが、そのときの様子は『蓮生法師一代絵伝』によれば、 聖覚法印を待っている間、蓮生は懐から鎧通しを取り出し、手水鉢にて研ぎだしたのである。 これを見て取り次ぎの者が恐る々るどうされたのかと尋ねると、直実は、

 「これへ参るは、後生の事を尋ね申さんがためなり、もし腹を切り命を捨てねば、 後生は助からぬと承らば、腹をも切らん料(かんがえ)なり。」

と答えたという。

 聖覚法印は、それならばと法然上人を紹介されたので、直実は法然上人を訪ねることとなったのである。かくして、 初めて法然上人に対面したのである。その様子は以下の通りである。

 「罪の軽重をいはず、ただ念佛だにも申せば往生するなり、別の様なしとの給をききて、 さめざめと泣ければ、けしからずと思たまひてものもの給はず、しばらくありて、なに事に泣給ぞと仰られければ、手足をもきり命をもすててぞ、 後生はたすからむずるとぞうけ給はらむずらんと、存ずるところに、ただ念佛だにも申せば往告するぞと、やすやすと仰をかふり侍れば、 あまりにうれしくて、なかれ侍るよしをぞ申ける。まことに後世を恐たるものと見えければ、無智の罪人の念佛申て往生する事、 本願の正意なりとて、念佛の安心こまかにさづけ給ければ、ふた心なき専修の行者にて、ひさしく上人につかへたてまつりけり。」 (『法然上人絵伝(四十八巻伝)』第二十七巻)

 法然上人は、「罪の軽重を問わず、ただ念仏さえ称えれば、極楽に往生することができる」と教えられた。
 それを聞いた直実は、さめざめと泣いてしまったという。不審に思った法然上人が尋ねると、

「自分は手足を切り、命をも捨てて、はじめて往生できると聞いていたが、今、上人から、 ただ念仏さえとなえれば往生することができるということを聞き、あまりのうれしさに泣いてしまった」

と答えたというのである。

 良く言えば感受性豊かで真っ直ぐな性格、悪く言えば単純で融通のきかない性格、このような楽しいことには大声で笑い、 悲しいことには大声で泣くという、人の感情を押し隠さずにさらけ出す直実である。
 このお言葉をいただいた直実は、名を法力房蓮生法師とあらため、欣求浄土の念仏行者としての道を歩み始めることとなる。

 

 

 

●文治2年(1186) 「大原問答」

 浄土宗開宗から10年余りを経て、法然上人の名も日ごとに高まっていった文治2年(1186)秋、 法然上人は後の比叡山第六十一代座主となる顕真法印から浄土教についての「談論(討論会)」をお願いされる。場所は京都大原の勝林院、 南都北嶺の大徳碩学など三百人以上が集まる大宗論大会となった。談議の内容は別の機会に譲るとして蓮生法師を中心に話を進めたい。

 例のごとく、蓮生は法然上人のお供をすることとなったのであるが、弟子たちのよからぬ噂を耳にした。 勝林院に集まる多くの聴衆のなかには、「念仏停止」を訴える過激な僧徒が法衣の下に刀剣を隠し持ち、 仏罰と称して法然上人を襲撃するのではないか。蓮生はこれを聞き、法然上人に一大事があってはならないと法衣の下に鎧を着込み、 帯には鉈(短刀)を忍ばせて出かけることとなった。仏門修行中とはいえ、「板東一の剛の者」 と称された蓮生の武士としての血が騒いだのであろうか。

 法然上人一行は、勝林院手前にて石に腰掛け一休みする。その蓮生の姿を法然上人は見咎めて、
 「帯に差しているものは何か」
と尋ねられ、
 「僧形に不似合いのもの故、捨てよ」
と命じた。蓮生は法然上人の仰せに逆らうことはできず、やむなく鉈を近くの竹藪の中に投げ捨てたと伝えられている。

  この場所は、現在の大原三千院近くの律川と呼ばれる谷川に掛かる萱穂橋を渡りきったところで、「熊谷腰掛石鉈捨薮」 と刻まれた石碑が建っている。

 後日、法然上人は蓮生に、鉈の代わりにと「利剣即是弥陀号 一声称念罪皆除」 と記された南無阿弥陀仏の名号を賜れた。利剣は即ち弥陀の名号なり、一声称念すれば罪は皆除かれる、という意味である。 この名号は「利剣名号」と称され、現在当寺院に収蔵されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

●文治3年(1187) 「所領の一部を没収される」

 小次郎直家から帰郷を促す便りを受け取り、熊谷へと戻った直実に鎌倉より呼び出しがあった。鶴丘八幡宮において「放生会」 が行われることとなったのである。この放生会の重要な儀式として「流鏑馬」が行われることとなったが、直実には「射手」ではなく「的立役」 が割り当てられた。
 千軍万馬の戦場で、馬上での剛弓を駆使してきた直実にとって、この役はこの上ない屈辱であった。

「八月四日 壬申、今年鶴岡ニオヒテ放生会ヲ始行セラルニテ(中略) 流鏑馬ノ射手ナラビニ的立等ノ役ヲ充テ催サル。ソノ人数ニ熊谷直実ヲモツテ、上手ノ的ヲ立ツベキノ由仰セラルルノトコロ、 直実鬱憤ヲ含ミ申シテ云ク、御家人ハ皆傍輩ナリ。シカルニ射手ハ皆騎馬ナリ。的立ノ役人ハ歩行ナリ。スデニ勝劣ヲ分ツニ似タリ。 カクノゴトキノ事ニオヒテハ、直実厳命ニ従ヒガタシト云ヘレバ、重ネテ仰セラレテ云々。」 (『吾妻鏡』)

 頼朝は重ねて命令し、梶原景時も早く勤仕すべきと諭したが、直実は「お断りします」と言い残し、熊谷へ帰ってしまったのである。
 命令に従わなかった直実にはその科として、所領の一部が没収された。

「直実ツヒニモツテ奉ワリヲ進スルニ能ハザルノ間、 ソノ科ニヨツテ所領ヲ召シ分タルベキノ旨仰セ下サルト」  (『吾妻鏡』)

 

 

 

●文治4年(1188) 「佛導寺にて、玉鶴姫との再会」

「善光寺御奮蹟(七塚の一)姫塚由來

我等仏導寺は、今(昭和十一年)より七百四十九年の昔八十二代後鳥羽天皇の御宇即ち文治四年の秋、善光寺如来の感顕に因り、 武蔵国の御家人熊谷次郎直実入道その息女玉鶴姫のために建立し連綿今日におよぶ。
今其由來を按するに源平の戦ひに英名を馳せた熊谷直實が一の谷に平敦盛を討ち取りて以来世の無常を感じて居た折から鎌倉にて、 久下権の守直光と地境を争ひ遂に敗れ益々浮世の果敢なきを悟り旧知伊豆国走湯山に聖覚法印の庵を訪ね、 後生菩提の事を尋ねたるに左様の事は京の黒谷に在す法然上人に尋ね給ひと申され、サラバとて京に上り、 法然上人のもとに剃髪し専ら身を修道に委ねぬ。熊谷の館内室は夫の身を案じつつ遺児の玉鶴姫を養育し居たり。 然るに偶々病床に臥し遂に帰らぬ旅路に赴く。玉鶴姫の悲歎は後の世を欣う心のもととなり、文治四年の春をそよに侍女一人を具し、 信濃善光寺に参らむと故郷を後に出発し途に深谷の禅刹国済寺に宿る。
時に住僧の申さるる様若き御身方旅中如何なる変有らむも図り難し、剃髪染衣の身と成りて所志を果されよとて、
懇ろなる勧めに両人大いに喜び、即ち師と頼み玉鶴は妙蓮、侍女は皓月と法号を付せらる。かくして二人は同寺を辞し信濃路さし旅立つ。 住僧には深く二人の志を感じ信濃追分の駅まで見送りて別れぬ。
日を経て二人は川中島の綱島に着きたる時、姫は長途の疲れで遂に重き枕につきたり、侍女の心労一方ならず、此
川一筋越しなば如来の在ます浄土なりと、病者を扶け川岸に致るに、前夜来大雨降り川は増水し、夜は更け、渡し守の影だになし。 侍女の思う様吾等は善光寺如来に詣らむためはるばるここに来る、主妙蓮尼の初一念を果さず、今ここに終焉させ参らする事、 この上の遺憾や有る可からず、せめて如来の在ます土なりと踏み参らせたくと病める姫を励まし、自からは微かに見ゆる如来前の御灯りに向ひ、 誠心をこらし主妙蓮の素志遂げさせ給ひと一心不乱に念仏申しける時に気高き翁現はれ、疲れと病ひに苦しむ主従を懇ろに労はり、 我れ綱を曳き船をやらむと、侍女の申す何れの御方ならむか此の増水にては如何あらむと申し了らぬ内に、いざこの船に乗り玉ひと、 侍女は嬉し涙とともに主の妙蓮尼を扶け船に乗り一層念仏申しける、瞬くうちに岸に着きたり、侍女の喜び限りなく妙蓮尼は更なり。 然る処に翁は立ち去らむとするに侍女はあはただしく翁に向ひ、御身は如何なる御方ぞと尋ねたるに、 我こそは御身等が信ずる善光寺如来ぞと答へられたと思ふ内て、光明赫然と輝き其の姿は何処となく消へ給ひり。
二人は夢かと計り侍女は左すれば吾等船に乗りし時綱を曳ける翁の足船に附かず、 奇異の思ひを成しつつありしに今眼のあたり御告けを蒙り洵に有難く忝く感じ、いよいよ信心堅固に尚はも念仏申しける程に、 姫の妙蓮は病ひいよいよ重り其中にも念仏申しけるに其辺り異香複郁として薫る。侍女皓月尼は益々奇異の感に打たれつつ介抱しける。
時に直実は名も蓮生と改め、其師法然上人が曾て善光寺へ参籠されしに倣ひて、過ぐる日より善光寺にて日夜如来へ参籠の功を積み居たり、 或る朝南の方に紫雲の棚曳きを見、蓮生法師は驚き怪しみ、尋ね行くに市村の里なり。そこに二人の尼僧ありその一人は、最早最後の有様なので、 法師は悲喜交々の体にて早速ても有難き御臨終かな御身方は何国の如何なる御方ぞと尋ねらる。 其時看護してありし侍女の皓月尼は溢れ出つる涙を押へながら、わたくし達は武蔵国熊谷の里より参りたる者にて……と次第を物語りぬ、 熊谷蓮生法師は驚き胸も張り裂く思ひにて言葉も出でず一時は只頬を伝ふ涙をも拭き得ず、在りしも今は恩愛の絆を絶ちし出家の身、 争でか愛欲の煩悩にひかれ三悪の巷に迷はんやと、心を励まし胸に燃ゆる思ひを左あらぬ態に装ふも親子の温情秘し難く、 法師の有様を見て取りたる妙蓮尼は病苦の中より申す様、御僧は若しや妾が父上にて在しまさずや、今妾は御覧の通り臨終に近し、 父上にて在さば、息女玉鶴と一言給はれと申しける。流石の法師もおどる心を押へ押へ居られしが、悲嘆の涙は止めどなく出、 恍惚として暫し言葉もなく只念仏を口ずさみ紛はし居られける程に傍らより侍女口を添へしに、法師は心取り直し吾僧は左様の者に侍らず、 九州の者にて去る頃より黒谷の法然上人に就き浄土念仏の一行を専修し、今は回国修行を思ひ立ち名高き善光寺如来に参籠、 今日此処に紫雲の奇瑞を見て来るなり。
吾僧先きに師上人の許に在りし時、紫雲の棚曳く処必ず大往生人ありと宣ふ、今初めてこの奇瑞を見る事誠に有難くと随喜の涙を湛へ、 更に二人にむかひて言はるる様、思ひ出せば熊谷なる御坊は師上人の許に在りし時同行にて、今は吾僧と同じく回国修行の由、 再会の事も侍ふは御身の事具さに申し伝へ侍らむ。吾僧今涙を催せしは若しや真の父熊谷ならばと其心を推し測りなるにて侍るなりと。 更に姫妙蓮尼に向ひ御身の往生最早近し、必ず聖衆の来迎あらむ、いよいよ念仏はげまれよ。吾僧も何かの御縁、同行として十念を授け申さんと、 侍女皓月尼をも顧し十念を授け、南無阿弥陀仏・・・・・・と一声は一と声毎に遠く、十声の了りと共に妙蓮尼は大往生を遂げ了りぬ。
時は文治四年七月吾の暁なり、然して小屋の内外に大光明を放ち異香薫りて暫し止まざりし、 法師も皓月尼も之の奇瑞を見直に善光寺如来の感現したるを喜び、いよいよ本願の有難き事を感じ、 法師は皓月尼に向ひ之れも他生の縁ならむに死体を隠し申す可しと、懇ろに葬らひ墓の印にと樹を植へたり(現に欅槻の二大樹森々として存す)、 姫塚是れなり。
其れより東方数丁の処に庵を結び姫の菩提のため開基し寺と成し、善光寺如来化現し船の綱を曳き姫を導き給ひしに因り熊谷山仏導寺と号け、 姫の法名を仏導院殿一乗妙蓮大禅定尼と授けたり。尚法師は綱を曳き給へる如来の尊
像と姫の像を自ら刻み、黒谷に上ぼせ其師法然上人に御開眼を請ひ七郎入道忠国をして当寺に持ち帰り本尊として奉安す。 即ち綱曳阿弥陀如来是れなり。国中無双の霊体なり。又法師は師上
人より授かりし紺紙金泥の大字名号一軸を遺し置かれたり、当寺の什宝として存す。 如上は善光寺如来の霊験は古来枚挙に遑あらすも熊谷主従のごときは真に浄土念仏の一行に依りて之の感験を得たる者なり、 実に有難き貴き事なり。

寳物

一.綱曳阿弥陀如来像(立像御丈二尺五寸 熊谷蓮生法師作)
 善光寺如来、仮に老翁の身を現じて、玉鶴姫を渡し玉ふ御尊影にして、熊谷入道自ら彫刻し、特に黒谷御師匠上人の御開眼を請ひ、 七郎入道忠国卿これを当寺に奉遷せられて、世に綱曳阿弥陀如来と称し、本邦無双の霊像とす。

一.紺紙金泥六字名号(一軸 法然上人筆)
 黒谷の御師匠法然上人の御真筆にして、熊谷蓮生に附属し給ひたるもの、当寺に遺留して什宝とす。「ただ愚め万の罪は深くとも、 我が本願のあらん限りは」

一.玉鶴姫像(座像丈一尺三寸 熊谷蓮生法師作)
 妙蓮尼と称し、法体の姿、宛然活けるが如し。

一.其他二三各所に散在するものあり今之を略す。」

「佛導寺縁記」

 

●建久元年(1190) 「敦盛卿菩提供養の為、高野山に入る」

 二月七日、蓮生は自身もかねてから望んでいた無官大夫敦盛公の菩提を弔うため、師法然上人の勧めもあり、 高野山蓮華谷の知識院へ入った。

 ここで直実は、足利義兼入道鑁阿上人を迎え敦盛卿の七回忌引法要を厳修した。
 自分なりの修行を模索するも求めるもののなかなか見つからない直実は、熊谷のことも気掛かりとなり、高野山を下り、 熊谷へ熊谷へと向かった。

 知識院はその後焼失し、持法院として再建される。蓮生没後、小次郎直家は高野山に登り、 亡父蓮生法師と敦盛卿のために堂宇を改修し法要を厳修する。この際、三代将軍源実朝より「熊谷寺」の扁額を賜り、現在に至っている。

 境内には、このとき直家が建立した敦盛・蓮生供養の五輪塔がある。一説では、蓮生が来世での一蓮托生を願って敦盛菩提、 蓮生逆修のために建立したとも伝えられている。寺宝としては、「蓮生法師御自作霊像」、「蓮生法師陣中御守本尊多宝如来像」、 「蓮生法師陣中着用兜、鎧、陣刀二振」、「敦盛母衣の御影」、「歌の会の巻(関白九条兼実、法然上人、親鸞上人、熊谷入道の歌の版木)」、 「参議経盛卿の御返し状」などが納められている。なお、「御返し状」は蓮生の孫熊谷伊豆守直之が請い受けて、後、当寺院に寄託されている。

「圓光大師 見真大師 熊谷蓮生 御霊跡

高野山熊谷寺略縁起

   高野山熊谷寺

 當寺は円光大師・見真大師・熊谷蓮生法師の御旧跡、新撰元祖大師二十五霊場第八番の札所であります。
 當寺は桓武天皇の皇子葛原親王の御願に因り承和四年(八三七)に建立せられ宗祖弘法大師の法孫真隆阿闇梨(果隣大徳の高足) が初代住職であります。寿永三年(二八四)二月七日撮州一の谷に於ける源平の合戦に於て敗れた平家方の将兵は友軍の軍船にのがれました。 此の時遠淺の海に駒を乗入れた武将を呼び返した熊谷直実は格斗数合やがて組敷いて首級をあげようとよく見ると一子小次郎直家と同年輩十六・ 七の美少年平家の大将参議経盛の末子敦盛でありました。直実は同じ日の末明敵の矢に傷ついた直家の「父よこの矢を抜いてたべ」 との願いを耳にするも敵申の事とて傷の手当てをする暇なく敵陣深く突入した時の親心の切なさを思い起し敦盛の首を斬るに忍びず、 しばしためらったのでありますが心を鬼にして首を掻き切ったのであります。 かくて直実はほとく世の無常を感じて発心し當時日本一の上人と尊崇されていた吉水の法然上人の弟子となり「法力房蓮生」 の名を与へられ専心念仏の行者となったのであります。建久元年(二九〇) は敦盛卿の七周忌に当るにつき追福の法要を営まんと思い立ち師法然上人の指示に依り高野山に登り父祖の菩提寺であった當院に寄寓し敦盛郷の位牌及び石塔を建立し懇ろに敦盛の菩提を析ったのであります。 爾釆十四年間山に留まり念仏に専心いたしました。建仁元年(三〇一) 鎌倉将軍源平両氏の戦死者大追悼会を此の山に営んだ時法然上人その特請に遭われ親鷲上人及び圓証入道関白兼実公と共に登山一夏九旬の間当寺に留錫その頃新別所に於て称名念仏していた二十四人の杜友等と交誼を交えながら衆生済度の大願を祈求されたのであります。 或る時御三方庭前の井戸の水鏡にて各々御姿を写され自らその像を彫まれました。 そめ御尊像を奉安してあるのが表門の横に在る圓光堂であります。 又法然上人は龍華三会の暁にわが大師に値遇の良縁を結ばんが為亦末世道俗摂化の方便にもと五輸の石塔を奥の院のほとりに建立し白ら梵宇を書し 「源空」の二宇を刻んで置かれました上人の滅後弟子等相寄り御芳骨をその塔下に納め奉ったと伝えられています。 高野山円光大師廟というはこの五輸塔の事であります。
 蓮生法師承元二年(三〇八)九月十四日念仏を唱え睡るが如く往生されました。 その後直家は亡父の遺命により登山當寺の堂宇を改造修築して追孝の法要を営みました。 この事時の将軍実朝公の知るところとなり蓮生房の詠まれた「約東の念仏」の歌と「熊谷寺」と書いた扁額を寄進されました。 當寺は元智識院持宝院と号していたのをこの因縁に依り熊谷寺と改称し今日に及んでいるのであります。
 弘長四年親鷲聖人の三回忌に当り覚信尼公(上人の息女) 聖人の遺命に依って御臨終の名号並に御遺骨及び御母公玉日の前の木像を使者日野家の士下
条専右衛門頼一を遣して當寺に納められ且つ聖人が師の流れを汲んでかね
て手書しおかれた梵字を刻んで石塔を建立されました。
上述の如く當寺は承和四年創立以来ここに一千百有余年高野山の歴史と
その運命を共にしてきたのでありますが明治廿一年三月当山大火あって当
寺もその災に罹り堂舎悉く焼失したのであります。爾来先師の並々ならぬ
努力により再建され遂次坊舎の増築するあり旧に倍する規模を呈するに至
ったのであります。
これ偏へに宗祖大師の御冥護と加ふるに上来御三方の御霊光の賜物と渇
仰の微衷禁ずる能はざるものがあります。翼くは円光見真両大師の芳濁を
慕ひ念仏唱名し往生の素懐を遂げんと願ふ信者は両大師の流れを汲み登山
して弘法大師に龍華値遇の良縁をお結び下さい篤信の善男善女希はくは當
寺に参籠して仏恩報謝せられんことを。

○空海の心の中に咲く花は 弥陀より外に知る人はなし(空海)

○極楽もかくやあらましあら楽し はやまいらばや南無阿弥陀仏(法然)

○にはかなる南無阿弥陀仏の一聲に たのめばすてぬちかいなりけり(親鸞)

○約束の念仏は申すまでにそうろうよ やろうやらじは弥陀のはからい(蓮生)

○晴れやらぬ心のうちのくもりども 南無阿弥陀仏の風にはれけり(円証)

昭和四十八年二月十一日印刷
昭和四十八年二月十五日発行

和歌山県伊都郡高野山熊谷寺現住誌」

(『高野山熊谷寺略縁起』)

 

 

●建久2年(1191) 「熊谷蓮生直実譲状」

 直家は奥州征伐の功により、安芸三入庄を授けられた。そのため、直実は熊谷領の一部を末子四郎に譲ることとした。

「先祖相伝ノ所領一ヶ所 武蔵国大里郡熊谷郷内
田 弐拾町 東限 源三郎東路 南限 雨奴末里際
      西限 村岳境大道 北限 苔田境ノ源次ノ前ノ路
右ノ所領ヲ四郎実家ニ永代譲リ与也
 建久二年三月一日
地頭僧 蓮生  嫡子 平直家 次男 同実景(『熊谷家文書』)

 

 

●建久3年(1192) 「対久下直光境地争、頼朝ノモトヲ辞ス」

 建久三年、久下権守と領地境争いをした。鎌倉では訴えの場にて、直実は武道にては勝れていたが、弁済では直光が勝れ、 さらに梶原景時の応援により、利を非にかえられ、直実は大いに怒り、頼朝の面前にて髪を切り、伊豆走湯山に走ってしまった。

「十一月二十五日 甲午・・・(中略)、対決ニ至リテハ、再往知十ノ才ニ足ラズ、 頗ル御不審ヲ胎スニ依リテ、将軍家度々尋ネ問ハシメ給フ事有リ。時ニ直実申シテ云フ、此事、梶原平三景時、直光ヲ引級スルノ間、 兼日道理ノ由ヲ申シ入ルルカ、仍ツテ今直実頻リニ下門ニ預ル者ナリ。御成敗ノ処、直光定メテ眉ヲ開ク可シ。其ノ上ハ理運ノ文書無シ。 左右スル能ハズト称シ、コト未ダ終ヘザルニ、調度文書等ヲ巻キ、御簾ノ中ニ投入レテ起座シ、尚忿怒ニ堪ヘズ。」 (『吾妻鏡』)

 直実にとって、出家することはかねてからの志であったが、その機が無かった。しかし、今回心ならずも生来の短気を爆発させて、 出家することを公然と意志表示したのである。驚いた将軍は、熊谷のごとき剛の者を失うことを惜しみ、 出家を思いとどまらせるべく走湯山の専光房良暹にその旨を命じた。

「京都ノ方ニ赴クカト云々、則チ雑色等ヲ相模伊豆ノ所々並ビニ箱根走湯山等に馳セ遣ハシ、 直実ノ前途ヲ遮リテ、遁世ノ儀ヲ止ム可キノ由、御家人及ビ衆徒等ノ中ニ仰遣ハサルト云々。」(『吾妻鏡』)

 専光房は、直実に頼朝からの上洛出家を思いとどまるべしの旨を伝えたが、出家の決意は固く、断念させることは無理と考え、 直実には純粋に仏道を求めるのみであり、謀反の意志が全くないということを鎌倉に報告した。その後、熊谷領は、 そのままで咎め無しの沙汰が鎌倉より直家のもとへ送られてきた。

「十二月二十九日 丁卯、今日走湯山ノ専光房、歳末ノ巻数ヲ献ス。 ソノ次ヲモツテ申シテ云ワク、直実法師上洛ノ事ハ、ヒトヘニ羊僧ノ諷詞ニツキテ思ヒ止マリヲワンヌ。タダシ左右ナク、 営中ニ還リ参ルベカラズ、シバラク武州ニ隠居スベキノ由、」(『吾妻鏡』)

直実は、走湯山にて妙真尼を訪ねる。妙真尼は法華経持経者であったが、法然上人の話を聞き、 それ以降念仏を称えるようになったと伝えられている。内実は、この妙真尼から浄土の話を聞き、改めて出家の決意を固め京へ上ったのである。

「伊豆走湯山ニ参籠シケルガ、法然上人ノ念仏弘通ノ次第ヲ、 京ヨリ下レル尼公ノ語ロケルヲキキテ、ヤガテ上洛シ・・・」(『九巻伝』)

 直実は敦盛公を討ってからのもやもやした気持ち、一生かけてその菩提を弔うと約束したが、その方法も未だわからないまま、 流鏑馬での的立て役、そしてこの裁判、自らの命をかけて戦ってきたのに、戦いのためとはいえ、多くの人を殺めてきたのに、 なのにこの仕打ちは何だ、こう感じたのであろう。
 ここに直実はついに出家を決意し、法然上人のもとを訪れたのである。

 

 

 

●建久4年(1193) 「法然上人の弟子となる」

 「武蔵国の御家人、熊谷の次郎直實は、平家追討のとき、所々の合戦に忠をいたし、 名をあげしかば、武勇の道ならびなかりき。しかるに宿善のうちにもよをしけるにや、幕下将軍をうらみ申事ありて、心ををこし、出家して、 蓮生と申けるが、聖覚法印の房にたづねゆきて、後生菩提の事をたづね申けるに、さようの事は法然上人に、たづね申ベしと申されければ、 上人の御庵室に参じにけり。」 (『法然上人絵伝(四十八巻伝)』第二十七巻)

 文治元年の項でも触れたが、一説には直実の出家はこの建久4年であるとする説もある。「大原問答」、「高野山参籠」、 「熊谷蓮生譲状」がこの建久4年説とは相反するものである。この3件を現実無偽のものとするならば、こうは考えられないであろうか。直実は、 敦盛を討ち、その無常さを感じて法然上人の門をたたいた。ありがたい念仏の教えを聞き、出家したく思うも、 一族の事を考えると直ぐには無理である。そこで、出家者の真似事(本人は至って真剣である)のようなことをしていたのではないか。その間に、 前記の3件のような出来事があり、この建久4年に、改めて、本当に出家し、念仏の道に進み始めたと考えられる。いづれにせよ、 直実は出家することとなったのである。

 さて、いざ出家といっても直実はどうしたらよいのか分かるはずもなく、以前知人から紹介された聖覚法印(一説では、 聖覚法印の実の父であり法然上人の弟子でもある澄憲法印とも言われている)を訪ねるが、そのときの様子は『蓮生法師一代絵伝』によれば、 聖覚法印を待っている間、蓮生は懐から鎧通しを取り出し、手水鉢にて研ぎだしたのである。 これを見て取り次ぎの者が恐る々るどうされたのかと尋ねた。

「なに事の科ぞ」と人申しければ、
「これへ参るは、後生の事を尋ね申さん為なり、もし腹を切り命を捨てねば、後生は助からぬと承らば、腹をも切らん料(かんがえ)なり。」 とぞ申しける。法印、此の事を聞き給いて、
「サル高名ノ者ナレバ、定メテ在知アルラン」トテ「後生助カル道ハ法然房ニ尋ネ申スベシ」トテ、使ヲソヘテ、上人ニ引導セラレ、」
(『法然上人伝記』)

 聖覚法印は、それならばと法然上人を紹介されたので、直実は法然上人を訪ねることとなったのである。かくして、 初めて法然上人に対面したのである。その様子は以下の通りである。

 「罪の軽重をいはず、ただ念佛だにも申せば往生するなり、別の様なしとの給をききて、さめざめと泣ければ、 けしからずと思たまひてものもの給はず、しばらくありて、なに事に泣給ぞと仰られければ、手足をもきり命をもすててぞ、 後生はたすからむずるとぞうけ給はらむずらんと、存ずるところに、ただ念佛だにも申せば往告するぞと、やすやすと仰をかふり侍れば、 あまりにうれしくて、なかれ侍るよしをぞ申ける。まことに後世を恐たるものと見えければ、無智の罪人の念佛申て往生する事、 本願の正意なりとて、念佛の安心こまかにさづけ給ければ、ふた心なき専修の行者にて、ひさしく上人につかへたてまつりけり。」 ( 『法然上人絵伝(四十八巻伝)』第二十七巻)

 法然上人は、「罪の軽重を問わず、ただ念仏さえ称えれば、極楽に往生することができる」と教えられた。
 それを聞いた直実は、さめざめと泣いてしまったという。不審に思った法然上人が尋ねると、

「自分は手足を切り、命をも捨てて、はじめて往生できると聞いていたが、今、上人から、 ただ念仏さえとなえれば往生することができるということを聞き、あまりのうれしさに泣いてしまった」

と答えたというのである。

 

 

 

 

●建久5年(1194) 「誕生寺建立」

 蓮生の師法然上人は、13歳のときに叡山に登った。その後、 父母には何一つ孝養の道もとれずに今日まで過ごしてきてしまったことが気がかりであった。上人は、三尺ほどのご自身の木彫像を蓮生に渡され、 父母の供養を頼んだ。
 蓮生は、師の誕生地である美作へと向かった。上人より預かった三尺の御木像を背負い、須磨から姫路、出雲街道を下り稲岡ノ庄栃社にき、 1本の銀杏の木が立っている壁塀に囲まれた居城跡が遙か前方に見えると蓮生は感激号泣し、天地も裂けんばかりに高声念仏を称えた。  ここ誕生寺は、浄土宗特別寺院の1つで、栃社山誕生寺といい、法然上人二十五霊場の第一番となっている。 崇徳上皇の御代の長承二年(1133)四月七日、押領使漆間時国の長子としてお生まれになった法然上人の誕生の地である。

 山門をくぐると眼前には、逆木の公孫樹なるものが生えている。 法然上人十三歳の時にお手植えの銀杏であって、根が逆さまに伸びたという。右手の方には毘沙門堂、阿弥陀堂、左手の方には、 文殊堂、観音堂、そして正面には、御影堂(本堂)がある。御本尊は阿弥陀仏で両脇に観音勢至両菩薩を随え、 右左の陣には善導大師と法然上人の御木像が祀られている。国の重要文化財にも指定されている立派な御影堂である。 さらにその奥には、法然上人お誕生の奇瑞をつたえる両幡の椋、勢至丸(法然上人の幼名) に右目を射られた明石定明が小川で右目を洗ったが、以後片目の魚が出現するようになったという曰く付きの川である片目川がある。 川を渡り右手には、法然上人産湯の井戸などがあり、左手の坂を登ると、法然上人がご幼少のみぎり勉学された那岐山の菩提寺、 母が祈願した岩間観音(棚原町・天台宗総本山)の本山寺などがある。

 両幡の 天下ります 椋の木は
 世々に朽ちせぬ 法の師のあと


 この歌は蓮生が感激して詠まれた歌で、大意は「上人がお生まれになったとき、天の彼方から二流れの白い幡が飛んできて、 庭の椋の木に掛かり、美しく輝いたと伝えられている。この木とともにお念仏のみ教えも、時を越えていつまでも繁り栄えることであろう」。
 自分自身を救い、その後の生き方を示していただいた師法然上人と、 お念仏のみ教えへの一途な思いが込められている歌として浄土宗御詠歌の第一番として今も多くの人々に唱和されています。


 

「恭しく惟れば、當山は畏くも人皇七十五代、崇徳院の御宇、長承二年四月七日、 元祖圓光明照大師法然上人御誕生あらせ給ひし露地にして、大師御両親尊廟の現存せる無比の遺跡なり。
抑も保延七年花散る春の夕べ、あはれ御父時國卿、源内武者定明がために、遣恨の双に発れんとして『汝會稽の恥を思ひ敵人を恨むること勿れ、 是れ偏へに先世の宿業なり』と、いしくも御遺言ありて、途に端座合掌して息絶え給ひしは、此所なり。 後久安三年残んの雪に肌まだ寒き二月十二日の朝御母秦氏君、

  かたみとてはかなきおやのとどめてし
   この別れさへまたいかにせん

とかなしくも御述懐あらせ給ひて、手馴れの御鏡にむかひつ、王くしけ母ひとり子ひとりのふたりが最後の生顔をうつしまして、憂たてや、 さらぬ、別れをかねたる、生別れをなし給ひしも此所なり。年は三五の春霞比叡の御山にのぼりましてより後、いくその年月を経て、 承安五年春三月四十三歳にして始めて專修念佛の浮土宗をひらき給ひし時、今しもし世に父母のおはしまさんには、先づ作州に下向して、 此の御法を傳へ奉るべきものを、『樹静かならんどすれば風やます、子養はんとすれば親いまざす』 といひけん昔の言の葉を今この法然が身の上に見るこそ、さても味氣なの世のさまかなと、なげかせ給ひつつ、これせめてもの、 おもびやひなる追孝の料にもとて躬から勿体なくも、御像を彫ませ給ひ一刀一念彫みては唱へ、唱へては彫みつつ、遽に四十三歳の、 等身の御像を四十八たびまで御開眼ましまして、之れを御身代りに故郷へつかはし、御墓参になぞらへ、 且つは有縁にも結縁せばやと思召しけれども、其御願は唯あらましにて、空しく年月を過ごさせ給ふ、ここ熊谷の次郎丹治直實は建久四年、 大師御年六十一の時入道して御弟子となりしかば、或時彼の故郷の御物語りありければ、願ぐば、 某にその御役を仰せつけさせ給へかしとてやがて御像を負ひ奉り、都を後にしかすがに老の旅路のいそがれて、あゆみは西にむかふまち、 唱へてやまぬ山崎や、空にぞ仰ぐたかつきの、月の光りに照されて、心の内の茨木の、とげとげしさを恥ぢらひつ、早やも浪華の津をすぎて、 甲山さへ見えそめたれば、鎧武者の昔の心もかへる熊谷入道、こし方行末とりとりに、思ひをくだく須磨の波、ゆくての方に鵯越え、 一の谷など見えてけり、あはれ在家のむかしをおもへば、此処にて平家の公達敦盛公を討し身の、今叉出家の身とはなりて、 同じ濱邊をさすらふる、有爲転攣の世相かな、

  昔のよろいにかはる紙子には
   かぜのいるやも通らざりけり

と詠じつつ無明長夜も明石潟、有年高砂と播磨路を、はや杉坂も行き行きて、久米の皿山いや更に、思ひ慕ひて稲岡の、 この里にこそ入りにけれ、さてなん昔の御舘を佛閣に引き直し誕生寺と號したり、今の寺即ちこれなり。 さればこれより諸人の帰依日に盛え月に増し、念佛の聲は四海に満ち、受教の輩は中外に溢れ、二幡の椋の木は彌々茂り、 片目川の流れは増々清くして殿堂甍を並べ、棲閣軒を交はして、法燈長へに輝く。哀れ吉水の流れを掬める輩は、 大師の寳前に脆き御両親の尊廟に額つきて、以て無窮の慈恩に答へ、二世の勝縁を祈り給はんことを、勧めまいらすものなり。(終)

御両親法号
菩提院殿源誉時国西光大居士 父君 行年四十三歳
保延七年三月十九日
解脱院殿空誉秦氏妙海大禅定尼 母君 行年三十七歳
久安三年十一月十二日

参詣路順案内
岡山駅下車中国線津山行列車へ乗り換へ誕生寺駅にて下車此駅より平坦なる道路を西へ五丁ほどにして誕生寺の門前に着す 前以て御通知あらば出迎人並に荷物運搬人を同駅まで派遣す

毎年新暦四月十九日
宗祖御両親追遠二十五菩薩来迎練供養修行並宝物拝観公開
岡山県久米郡稲岡南村
二十五霊場第一番 誕生寺」

 「誕生寺縁起」

 

 

●建久5年(1194)  「丹波蓮生寺建立」

 美作からの京への帰路、丹波路の宵田にさしかかったところ、雪も深く日も暮れたので蓮生は村の辻堂に入り、 高声念仏を称え夜を明かした。何事かと驚き集まった村人の中に蓮生を見知る者がいて、あの剛勇無双の熊谷直実がと感嘆敬服し、 念仏の声があがった。当地にとどまり教示されんことを望まれたが、蓮生は己れ自身の心身のいましめにもと別時の念仏を修したのである。

 村人たちは、この地に新たに念仏庵を建て、念仏道場、蓮生寺と名付けた。この寺は、 現在の浄土宗熊谷山大如院蓮生寺であり、開山を蓮生法師、寺宝には熊谷蓮生坊笈仏、御自作木像、手蓮華などが今も伝えられている。

 

 

 

●建久6年(1195)2月  「熊谷蓮生置文」

 美作、若狭、丹波、をまわり吉水の旧房へ戻り、法然上人より授けられた迎接曼荼羅を前に、 これでいつでも往生できるとの気持ちになった蓮生は、嫡子直家が頼朝の上洛に従って京に来るのを機に、 子孫に対して器量に応じて行うべきつとめを願い、置文をしたためた。

子々孫々ニ至ルマデ能々知ラシムルベキ旨
一、先祖相伝ノ所領安堵御判形七ツ並ビ保元元年以来建久年中ニ至ル軍感状二十一相伝ヘルベキ事
一、主君ニ対シ逆儀アルベカラズ並ビ武ノ道ヲ怠ラザル事
一、法然上人御自筆御理書並ビ迎接曼荼羅ヲ信心トスベキ事
右参ヶ条ノ外、其ノ身ノ器量ニ応ジ事ノ道理ヲワキマエルベキナリ
仍置状件ノゴトシ
      建久六年二月九日  蓮生 判
  」

 

 

 

●建久6年(1195)  「津戸ノ三郎為守、大胡太郎実秀に念仏を勧める」

 

 

 

●建久6年(1195) 「熊谷下ニ向(東行逆馬)」

 弥陀の御慈悲を一族、同輩と分かち合うべく願って熊谷に向かった。路々、不背西方の念仏行者として、 馬に逆さに乗って、念仏を唱えながら、板東に下った。
 
「浄土にも剛の者とや沙汰すらん 西に向かひて後ろ見せねば  蓮生 」

 

 

 

 

●建久6年(1195) 「念仏質入れ」

 東海道の小夜の中山で直実は盗賊にあった。修羅場を幾度となく、かいくぐってきた蓮生にとって、 取り押さえることは雑作のないことであったが、これでは短気がなおらんと、盗賊の望むまま、失って惜しいものとてなく、旅銭、 法衣らすべてを与えてしまった。


 蓮生は路銀に困り、藤枝の福井憲順より借用した。その代わりとして、 端座合掌し声高らかに南無阿弥陀仏と念仏を称えた。すると、蓮生の口よりまばゆい金色の阿弥陀如来の化仏が現れ、 憲順の口の中に移った。南無阿弥陀仏を十遍称えると、十体の阿弥陀様が憲順の体中におさまったのである。
 憲順は夫婦ともども、これは有り難き奇瑞なりと、蓮生に銭を、さらに法衣、必要なものを与えた。その夜、蓮生は憲順宅に引き留められ、 あたたかくもてなされ、阿弥陀如来の功徳を説き、その志に報いた。

 その後、建久七年三月、蓮生は帰洛の途上、路銀の返却のため憲順の屋敷を訪ねた。憲順の願いにより、 十遍のうちの一遍を憲順の体中にとどめ置き、さらにしばらく滞在し、他力本願の教えを説いた。
 憲順は夫婦ともども蓮生の教化により念仏に帰依し、法名を蓮順と改め、福井家をそのまま念仏の寺とし、蓮生を開山となし、 熊谷山蓮生寺となした。
 
「阿弥陀仏と称ふる人は彼国に 心ぞいたる墨染めの袖」蓮生

「受け伝ふ法(
のり)の流れも汲みて知る このうれしさをいつか報ぜん」蓮順

 その後、熊谷山蓮生寺は、蓮因の代に親鸞上人が立ち寄り、浄土真宗に帰し東本願寺の末寺となり、 現在に至っている。

 寺宝には、「蓮生法師筆六字名号」、「太刀(四尺、直家銘)」、「蓮生法師木座像(中山備中守信敬刻)」などが今も伝えられている。

 

 

「法寶物略目
一、熊谷蓮生房寿像 自作
一、横取替之名號
一、兜中守佛
一、親鸞聖人雛形木像 自作
一、大蛇済度名號石 鸞師筆
一、来迎三尊画 恵心筆
一、名体不二如来 恵心筆
一、母衣絹名號 蓮生房筆
一、直實戦場依用大剣 直家納
一、黒谷秘伝鈔 鸞師筆
一、聖徳太子木像 鎌倉運慶作
一、正信念佛偈(双幅) 教如上人作
巳上外略之

抑当院は建久六年秋八月熊谷直實入道蓮生法師鎌倉下向の砌り立寄り給ひ十念奇瑞の霊場也。法師熊谷次郎直實ご名謁り給ひし昔、 源平の間た軍功無双の英雄にして総大将頼朝公より感状二十余通を賜り武州大里、埼玉、両軍を領し関八州志の党の旗頭なりしが、 宿善開発にや頻りに無常遷変を感じ法然聖人の門に入り坂東阿弥陀佛法力房蓮生法師と給はりけり、 然るに関東に老母の煩りけるを聞召し不背西方の金文を守り逆馬に鞭ち「浄土にも剛の者とや沙汰すらん西に向かひて後ろ見せねば」 と口號つつ小夜の中山にかからせけるに山賊踊り出つ、其時少しも騒がず喩へ汝等数千人立向ふとも何ぞ恐れんや、 今は法師の身なればとて望みなる旅銭与へ玉ひ、ゆくゆく当藤枝驛に来り旅糧巳に尽きければ福井左右衛門之尉憲順を訪ひ、 鎌倉下向の旅糧を乞ふに見知らざる御旅僧質物なくば応ぜじと答へければ然らば大切なる十念を質にせんとて憲順に向ひ合掌称念じければ、 化佛髣髴として主の口に入る、 驚て一貫文を貸し参らせける爰に旅糧を得て鎌倉に趣く翌七年春三月帰洛の刻み来臨ありて恩借を返し十念を戻すべしと主云く我等凡俗奇瑞顕はれずば云何すべきやと申せば唯称へて戻さるべ志と、 依て覚束なくも合掌して十念相続しけるに奇瑞元の如し、妻愕て第十念に及び主の口を押へて申しやう斯る奇瑞空しく戻し参らすこと本意なし、 願わくは一遍乃称名、一体の化佛我等等夫妻に附属し給へご法師之を諾す、 爰に夫妻に対志懇ろに法義化導なし玉ひけれは立所に随喜渇仰志て師弟の芳契を結び、法名蓮順、蓮心と賜志ゆへ忽ち世業を廃し、 家財を抛ち仏閣となす即ち当院是也。師留錫中に「阿弥陀仏と称ふる人は彼の国に心そ至る墨染めの袖」ご詠じしかは蓮順取りあへず 「受伝ふ法の流れも汲て知るこの嬉しさをいつか報せん」と返志ぬ、師帰洛に及び別離を惜みければ形身と志て自作寿像及名號を残し置けり其後、 蓮因貞永二年鸞聖人帰洛の途を屈請して真門に帰す。鸞師六字十字尊號黒谷秘伝鈔を授く、其后生岸蓮如上人より鸞師雛形の寿像六字名號を拝受、 其後祐念東本願寺に属す教如上人より正信偈自筆を拝受す、是如法燈聯続の霊場也。」

「東海道駿河国 志太郡藤枝驛熊谷山蓮生寺縁起」

 

 

●建久6年(1195)8月 「頼朝と対面、仏法・兵法について語る」

「八月十日、熊谷次郎直実法師、京都ヨリ参向ス。往日ノ武道ヲ辞シ、 来世ノ仏縁ヲ求メテヨリ以降、偏ニ心ヲ西刹ニ繋ケ、終ニ跡ヲ東山ニ晦マス。今度将軍家御在京ノ間、所在アルニ依リテ不参ス。 追ツテ千程ノ嶮難ヲ凌ギ、泣ク泣ク五内ノ蟄懐ヲ述ブ。仍テ御前ニ召シ、先ヅ、穢土ヲ厭離シ、浄土ヲ欣求スル旨趣ヲ申ス。次ニ兵法ノ用意、 干戈ノ故実ヲ談ジ奉ル。(『吾妻鏡』)

 将軍のお召しに応じ拝謁した蓮生は、旧主君に会えた喜びに涙を流し、 仏門への憧憬の思いを断ちがたく、罪障消滅のために機をみて遁走したこと、念仏に明け暮れていたため在京中の不在を深く謝した。


 話題が転じ、過ぎし戦さの兵法に及び、三十余年の戦歴の蓄積である「雲の巻」、「火の巻」を語ると、 将軍や諸将は俗野の雑念や雑事を離れてとらわれのない卓越した兵法に意を同じくし、出家した蓮生まを惜しんだという。

「身ハ今、法体スト雖モ心ハナホ真俗ヲ兼ヌ、聞ク者感嘆セザル莫シ。今日即チ武蔵国ニ下向スト云々。 頻リニ之ヲ留メシメ給フト雖モ、後日参ズ可キノ由ヲ称シテ退出スト云々。(『吾妻鏡』)

 

 

●建久7年(1196) 「帰洛」

 

 

 

●建久8年(1197) 「法然上人の共で、九条兼実邸を訪れる」

 「或時上人月輸殿へ蓼じ給けるに、この入道推参して御共にまいりけるを、 とどめばやと思食されけれども、さるくせものなれば、中々あしかりぬと思食て、仰らるるむねなかりければ、月輸殿までまいりて、 くつぬぎに候して、縁に手うちかけ、よりかかりて侍けるが、御談儀のこゑのかすかにきこえければ、この入道申けるは、 あはれ穢土ほどに口おしき所あらじ。極楽にはかかる差別はあるまじきものを、談儀の御こゑもきこえばこそと。
しかりこゑに高馨に申けるを、禅定殿下きこしめして、こはなにものぞと仰られければ、 熊谷の入道とて武藏國よりまかりのぼりたるくせものの侯が、推参に共をして候と覚候と、上人申給けれぱやさしくただめせとて、 御使を出されてめされけるに、一言の色題にも及ばずやがてめしにしたがひて、ちかくおほゆかに祇候して聴聞仕けり。 往生極楽は當來の果報なをとをし、忽に堂上をゆるされ、今上の花報を威じぬる事、本願の念佛を行ぜずば、争此式に及べきと、 耳目をどろきてぞ見えける」
(『法然上人絵伝(四十八巻伝)』第二十七巻


 あるとき法然上人は、九条兼実の屋敷に呼ばれて行ったことがあった。 このとき蓮生も半ば無理矢理であるがお供をしたのである。上人は座敷に通されたが、蓮生は中には入れてもらえず、 縁の外の沓脱あたりに控えていた。やがて法談が始まり、奥の方から兼実と上人との会話が聞こえてくるが、 とぎれとぎれでどうもよく聞き取れない。教えが聞けるとばかり思ってついて来た蓮生は腹をたてて、

「この世ほど口惜しいところはない。極楽にはこんな差別はあるまい。 せっかくの談義のお声も聞こえない」

と大声で放言したという。それを聞いた兼実は、法然上人のお供の由を聞き、使いをやって大床のところで聴聞することを許したというのである。

 通常ならば、聞きたくともお供である故、我慢するところであるが、さすがは蓮生法師である。常人の遠慮という考えは通用しない。しかし、 もっともな物言いである。扱いにくい性格ではあるが、純粋な蓮生の一面を垣間見られる出来事と言える。

 

 

●建久9年(1198) 「京都粟生野ニ光明寺(念仏三昧院)を開創」

 蓮生は、弥陀の本願を信じ、称名の一念に疑心をいだかぬ決定心で、日に5萬遍、6萬遍の念仏を始めた。しかし、 ここ吉水は朝廷や院の出入りが多く、その場所故、武士や旧友の訪れもあり、また鎌倉や熊谷からの音信も伝えられた。 一心に専念している称名念仏も、心乱れ、とどまりがちなため、どこか静かな地にて念仏したいと上人に申し出た。上人は、 西山広谷の粟生野の地を勧められた。

「人ノ心ハ境ヲ遂テ移ル、境閑ナレハ、心朗ナリ。此吉水ノ坊舎ハ、九重ノ内ニ程チカクテ、車馬ノ轟々耳ニミチテカシマシク、 六波羅境ヲ接テ、武士ノ出入、眼ニサヘキリテ六ヶ敷、旧友折ニフレテ音信来リ、古郷ノ伝モシケレバ、一心ヲ乱ル端トナリ、 念々相続ノ行業モ間断シヌヘク覚侍リ、京洛外ニ幽閑ノ地ヲ求メ、跡ヲ雲霞ニ晦シ、心静ニ念仏セハヤト思立、上人ニ此由申入ケレバ、 上人ノタマハク・・・・」(『光明寺縁起』上巻)

(*これよりは西山浄土宗総本山光明寺のHPより引用。)

 ここ粟生野の地は、かつて上人が承安5年に一心専念の身になって、自他共に救われる一道を確立し、 人々に広めんと28年間いた叡山黒谷を下り、始めて止住した地である。蓮生は、 江州堅田の浮御堂にあった恵心僧都作と伝えられる6尺の阿弥陀如来像を安置し、法然上人の御来駕を願い、上人を開山初代、 蓮生は第2代となし、入佛供養をお願いし、初の念仏道場となし、念仏三昧院と名付けた。 西山浄土宗の総本山光明寺は、 長岡京市西山のふもと、粟生広谷にあります。宗祖円光大師法然上人が御歳43歳の時、 日本で最初に念仏の産声を上げられた立教開宗の地であります。  
  
  法然上人が24歳の時、奈良へ学匠となるべき師を求めて叡山を降りられたとき、この粟生野の里、 当時村役の高橋茂右衛門宅に一夜の宿をお借りになりました。その時、茂右衛門夫婦は、上人の真剣な求法のお気持ちと、 広く大衆が救われる道を求めての旅である事を聞き、「まことの教えを見いだされましたならば、 先ず最初に私共にその尊いみ教えをお説き下さいませ」とお願いいたしました。

 時は流れ承安五年(1175年)3月、ついに浄土宗を開かれた上人は20年間のお約束の通り、 この粟生野の地で初めて念仏の法門を説かれたのです。  

  文治元年(1185年)に、かの源平の戦いで有名な熊谷蓮生(れんせい)法師(熊谷次郎直実)が戦いの明け暮れから、積もる罪業を償い極楽往生の道を求めて法然上人を訪ねました。
「どんなに罪は深くとも、念仏さえ一心に申せば必ず救われる」との、あまりにも有り難いみ教えに歓喜し、直ちにお弟子となり剃髪しました。
 法力房蓮生と名付けられ、数年のご修行の後、喧噪の吉水を離れ、静かに念仏を称えられる地を求めて、建久九年(1198年)に、 上人ゆかりの地、粟生広谷に寺を建て、法然上人を勧請して入佛落慶法要を営み、開山第一世と仰ぎ、自らは二世となり、上人からは 「念仏三昧院」の寺号を頂きました。これが光明寺の発祥です。 

 第三世幸阿上人の時、建暦二年(1212年)正月25日、法然上人がお亡くなりになりました。晩年は奈良、 叡山の古い教団から迫害を受け、滅後の嘉禄三年(1227年)には叡山の衆徒が大谷の墳墓を暴いてご遺骸を鴨川に流そうと企てたので、 上人の遺弟達は秘かにご遺骸の石棺を嵯峨に移し、更に太秦の西光寺に移しました。
翌安貞二年正月20日の夜、上人の棺より数条の光明が放たれ、南西の粟生野を照らすと言う奇瑞が現れましたので、 同月25日ご遺骸をこの粟生野の地で荼毘に付し寺の裏山にご芳骨を納め御廟堂を建てました。 この時の奇瑞にちなんでこれ以後念仏三昧院は光明寺と称される事になりました。


 

 

●建仁2年(1202) 「善信房への消息」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

●建仁2年(1202) 「禅勝房を法然上人に紹介する」

 

 

 

●元久元年(1204)5月 「上品上生の発願」

 再び京に上った蓮生は、元久元年五月に鳥羽一念寺上品上生の阿弥陀如来前にて、「我、上品上生を願って極楽に往生す。 その他の八品の往生は我が願にあらず」と堅き大願を起こした。

 その理由は、自分は下品下生でもよいが、この世で因縁を結びし人々を一人残さず極楽往生させ、なお無縁の者も共に印接せんために、 上品上生の願を堅めたのである。

 「蓮生念佛往生の信心決定してのちは、ひとへに上品上生の往生をのぞみ、 われもし上品上生の往生を遂まじくば、下八品にはむかへられまいらせじといふ。かたき願をおこして、 発願の旨趣をのべ偈をむすびて、みづからこれをかきつく。かの状云、元久元年五月十三日、鳥羽なる所にて、 上品上生の来迎の阿彌陀ほとけの御まへにて、蓮生願をおこして申さく、極楽にうまれたらんには、身の楽の程は、 下品下生なりとも限なし、然而天台の御釈に、下之八品不可來生と仰られたり。おなじくは一切の有縁の衆生、 一人ものこさず來迎せん、無縁の衆生までも、おもひをかけてとふらはむがために、蓮生上品上生にうまれん、さらぬ程ならば、 下八品にはうまるまじ。かく願を抽こして後に、又云、恵心の僧都すら、下品の上生をねがひ給たり、何況末代の衆生、 上品上生する者は一人もあらじと、ひじりの御房の仰ごとあるをききながら、 かかる願をおこしはてていはく末代に上品上生する者あるまじきに、しかもよろづ不當なる蓮生、いかで上品上生にはうまるべきぞ、 さなくば下八品にはむまれじとぐわんじたればとて、あみだほとけもし迎給はずば、第一に彌陀の本願やぶれ給なんず、 次に彌陀の慈悲かけ給なんず、次に彌陀の願成就の文やぶれ給なんず、次に釈迦の観無量壽経の、十悪の一念往生、五逆の十念往生、 又阿彌陀経の、もしは一日もしは七日の念佛往生、恒沙の諸佛の証誠、又善導和荷の下至十聲一聲等定得往生の釈、又なによりも、 観経の上品上生の三心具足の往生、それを善導の釈の具足三心必得往生也、若少一心即不得生、又專修のものは、千は千ながらの釈、 ことごとくこれら、佛の願といひ佛の言といひ、善導の釈といひ、もしれんせいを迎給はずば、 みなやぶれておのおの妄語のつみ得たまなんず。いかでか大聖の全言むなしかるべきや。又光明遍照十方世界の文、 又此界一人念佛名の文この金言どもむなしからじ、いよいよこれらの文もて、疑なき也とおもふ。 一切の有縁の輩郎たちかへりてむかへんとて、願をおこして上品上生ならずば、むかへられまいらせじといふ、 かたき願をおこしたるか、よくひが事ならんちやう、五逆の者ばかりはあらじ、しかればいかなりとも迎給ばぬ事あらじ、 これを疑はぬ心は三心具足したり。上品上生に生るべき決定心発したり、その疑煩悩断じたり。そのさとりをひらいたり。善導又天台、 この事をみるものば上品上生にむまる、又衆生の苦をぬく事を得又無生忍をさとる、 又極樂に所願したがひてむまるとの給へり

  下八品の往生 われすててしかもねがはず
  かの國士にいたりをはて すなはちかへり來事あたはざればなり
  かさねてこふ我願において 或は信じ或は信ぜざらんもの
  ねがはくは信と謗とを因として みなまさに浄土にむまるベし

于時元久元年五月十三日午時に、偈の文をむすびて、蓮生いま願をおこす。 熊谷の入道としは六十七なり、京の鳥羽にて上品上生の迎への曼陀羅の御まへにてこれをかく」
(『法然上人絵伝(四十八巻伝)』第二十七巻)


 ある夜、蓮生は池の中より只一本の金色の蓮が、するすると伸び、その茎は長く、天高く伸びる夢を見たという。この夢は、板東の人、 京の人たちが見た夢と全く同じで、蓮生のこの願いは、誠なりと人々の耳目を驚かした。
 蓮生の籠もったところは、現在の浄土宗一念寺であり、一説では蓮生法師を開山としている。 法然上人が配流されたとき鳥羽南門から乗船された地の寺で、蓮生に与えた名残の名号を伝えている法然上人の遺跡である。 本尊は東大寺念仏堂から迎えられた春日作の丈六、上品上生の阿弥陀仏坐像(旧国宝)である。

 

●元久元年(1204)11月 「七箇条制誡」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

●元久2年(1205) 「正行房宛消息」

 

 

 

●元久2年(1205) 「九条兼実ヨリ法然上人宛ノ消息」

 

 

 

●元久2年(1205)春 「熊谷下向」

 元久二年春、蓮生は熊谷への想いを断ちがたく、上人の門弟幸阿弥陀仏(光明寺三世)に後時事を託し、上人に別れを告げた。
 近江草津から中仙道に入り、途中美濃国横蔵寺にたち寄り、念仏を修した。この横蔵寺は、延暦20年伝教大師により、 比叡山根本中堂の本尊と同材の天竺伝来赤栴檀を用いて彫られた薬師如来を本尊とする。蓮生法師は、中興の祖とされており、 四十五世唯蔵の代に蓮生自刻の阿弥陀如来像がある。その銘によると、その昔この峰に釈迦堂があったが、ひどく傷んでいた。そこで蓮生は、 自ら阿弥陀如来像を刻み、念仏会の本尊として社を結び、この像を持仏堂に安置した。
 降って元久元年、五十一世円道の代に、大念仏無差会が復活した。この折、蓮生はここを訪れ、阿弥陀像(「熊谷弥陀」と称す)を自刻し、 横蔵寺常行堂の本尊とした。以来、春秋には大念仏会が開かれるようになったそうである。
 山門東塔吉祥院実光によると、蓮生の阿弥陀如来に記した願文(「上品上生往生の立願文」)が残されている。
 蓮生関係の寺宝としては、弥陀三尊来迎図(絹地彩色、伝恵心僧都、直実寄進)、直実着用の乗鞍(黒塗青貝磨)、鎧、轡、障泥(表青色、 厚木綿裏皮)、屓(縦二尺六五、横二尺〇五)、蓮生筆墨書一軸が伝えられている。

「抑も當爾界山横藏寺は畏れ多くも桓武天皇の御勅顧に因り、 延暦二十年比叡山延暦寺の開山傳敷大師が此地に住める三輪次郎太夫藤原助基翁(現今當村に祀れる三輪明紳は即ち翁を祀れるもの也) と相計り當山に七堂伽藍を建立せしに創まる、其御本韓は赤栴檀の奇木を以て成れり、初め傳敷大師は比叡山に於て、 藥師如來の像二体を自ら調刻し給ひて、一体を延暦寺根本中堂の御本尊に勧請し」残る一体を當寺の御本尊として安置し奉れり、 胎内佛は閻浮檀金の藥師の小像にして、開山の租、傳敷大師が延暦二十三甲年四月、詔を奉じて入唐せられし砌、 台州國清寺の道遽和尚より授與せられし尊像にして、翌二十四年六月、大師御帰朝の際彼の地にて授り給ひし如來の尊像と共に携へ帰りて、 其由天皇にも奏聞せられしもの也其後桓武天皇は傳教大師に仰せて、衆生教化のため如來を譲持して國々を巡教なさしめ給ひし際、 同年十一月十入日大師は偶々當國不破郡赤坂に來給ひ山上より干峯万岳を望見したまふに、 不思議なるかな北の方に當る嶺に奇なる一道の光り輝くを見て、必す何等かの瑞祥ならんと直ちに慕ふて其処に到り見給びしに、 先の光りは勿然化して神の御姿を現し大師に告げて曰く「吾れは白山権現にて汝を加護すること茲に久し、 護持の佛像は此地に留めて永く衆生濟度の正因となすべしと」の御神意に、 大師は深く霊験の著しきに感激し給ひつ直ちに御尊像を本尊の腹中に納めたまへり、 然るに此地に住する地主三輪次郎太夫助基翁偶々或夜の夢に当山十二神将及び胎蔵、 金剛両界の曼荼羅を観拝してより山号を両界山と名付け大師と共に専ら霊場の為めに力を尽せり、又大師登山して神勅を受けたまふ時、 如来を納めし笈不思議にも岩上にて俄然震動し、横になられしまま動きたまわざるにぞ、さては是れ有縁の霊地なる瑞像なりとて、 其時より寺号を横蔵と称せり、而して往昔の伽藍は頗る宏大にして輪奐具足し三十八ヶ所の坊宇ありて千石千貫の正税を賜り、 且つ末寺三百余坊有り、比叡山を模擬して麓に日吉山王の神社を勧請し、寺運大に振興して、霊境の名四隣に高かりき、 後ち天暦元年七月二十日村上天皇の勅に依り会式を挙げ、貴賤老若群集して結縁をなす
(今に至るも毎年奮七月二十日を會式縁日として執行し参詣者多し)後ち花風天皇の御宇賢くも台門弘通殿の御勅額を賜はれり、 然るに元亀年中本山なる比叡山延暦寺は時の兵焚に罹りて御本尊を失ひたれば天正十三年再興に際し、 當寺の御本尊を以て根根中堂の御本尊に転座せり、依て天正十七年後陽成天皇は勅使使一條大納言をして、 城州の御菩薩より大師一刀三礼の藥師如來を移し奉り、以て永く當寺の御本尊とせしめ給ひしものにして、其御勅状は今も傳へて當寺に存在す、 叉明和六年には日光の宮より傳敷大師開基の勝地、台門弘通の古刹なりとの御令旨ありたり然るに星移り物変り、 天文年中將軍足利義晴公の時代より織田信長公に至る間に於て、瘻々戦乱の渦を受けて、 寺宇三十八ケ所の住侶及び末寺三百余坊も難を他所に避けて離散し、且つ或は禅宗或は真言宗に転派するもの多く、旧寺領も数ヶ度洛革し、 霊場衰廃の嘆ありしが、慶長十五年に至りて徳川家康公より境内山林及び所在の山麓並に阪本一ヶ村の高を朱印ごして賜る (當村は現今横藏村と称するも昔は阪本村と称せり)寛文年中に至り旧堂宇を縮少して當境内に移し、再建して稍々旧観を保つを得たり、 斯くの如く當時は傳敷大師を以て開基とし爾來春風雨茲に一千百余年、其間當住實照に至るまで百有九世、一系連綿として法脈相承継し、 國家安寧の所念一日も解怠なく、眞俗二諦の相績しづづあるは、之れ偏に大師の御盛徳と申すべけれ

横藏寺百九世 檜正實照」

「横藏寺由緒」


 更に蓮生は、木曽路宮越を過ぎ、塩尻から北国街道に入り、信濃善光寺に立ち寄った。ここ善光寺には、源信・重源・明遍・ 証空ら多くの念仏業者が数多く訪れ、百万遍念仏、不断念仏を修している。「立派な殿堂より念仏の声する所こそ、我が棲家なり」 といって善光寺に落ち着いたという善光寺阿弥陀如来本尊前にて、蓮生は有縁・無縁の人々のため参籠し、念仏を勧めたのである。
 冬の粧いもすっかり脱げ捨て明るい日々が続き、梅・桃・杏の木々が一斉に蕾をゆるませ始めた頃、蓮生は熊谷へ向け善光寺を後にした。

 

●元久2年(1205)6月 「宇都宮頼綱へ念仏の教えを説く」

 熊谷に落ち着いた蓮生は、六月中旬、道すがら下野国領主宇都宮三郎頼綱に出会っている。 剛の者と世に名を知らしめた直実の変わり様を尋ねる頼綱に対し、蓮生は次のように答えた。
 
「いにしえの鎧にまさる紙衣 かぜの射る矢もとふらざりけり」蓮生
 
 この言葉は、日頃の争いから歌の世界に逃れようとするが、 逃れられず政争の渦の濁流に身を任せざるを得ないでいる頼綱の心を痛く揺すぶった。
二ヶ月ほどの後、頼綱は剃髪し、名を宇都宮実信房蓮生(れんしょう)とした。

 

●建永元年(1206) 「法然上人より消息(五月二日)が届く」

「御文喜ひて承り候ぬ。誠に其の後覚束なく候つるに、嬉しく仰せられて候。 但念仏の文書きて参らせ候。御覧候へし。念仏の行は彼の仏の本願の行にて候。持戒・誦経・誦呪・理観等の行は、 彼の仏の本願にあらぬ行いにて候へは、極楽を願はむ人は、先つ必す本願の念仏の行を勤めての上に、 もし行ひをも■■■し加へ候はむと思ひ候はは、さも仕り候。又只本願の念仏計りにても候へし。念仏を仕り候はて、 たた異を行ひはかりしをして極楽を願ひ候人は、極楽へも得生まれ候はぬことにて候由、善導和尚の仰せられて候へは、 但念仏か決定往生の業にては候也。善導和尚は阿弥陀仏化身にておはしまし候へは、それこそは一定にて候へと申候に候。又女犯と候は、 不婬戒のことにこそ候なれ。又御公達共の勘当と候は、不瞋戒のことにこそ候なれ。されは持戒の業は仏の本願にあらす。 堪へんに随ひて勤めさせおはしますへく候。又銅の阿字のことも、同しことに候。又錫杖のことも御仏の本願にあらぬ勤めにて候。 とてもかくても候なん。又迎接の曼荼羅は大切におはしまし候。それも次のことにて候。只念仏を三萬若しは五萬若しは六萬、 一心に申させおはしまし候はむそ、決定往生の行ひにては候。こと善根は念仏の暇あらはのことに候。六萬返をたた一心に申せ給はは、 その外には何事をかはせさせおはしますへき。忠実に一心に三萬五萬念仏を勤めさせたまはは、少々戒行破れさせおはしまし候とも、 往生はそれには依り候ましきことに候。たたしこの中に孝養の行は仏の本願にては候はねとも、八十九にておはしまし候なり。 相構へて今年なんとをは待ち参らせさせおはしませかしと覚え候はす。只ひとり頼み参らせておはしまし候なるに、 必す必す待ち今らせさせおはしますへく候。恐々謹言。
 五月二日  源空状
武蔵国熊谷入道殿 御返事」

(清涼寺蔵『源空自筆消息』)

 

 

 

 

●建永元年(1206)春 「蓮生法師夢記」(京都清涼寺蔵)

 蓮生の自筆の『夢記』は、現在、京都の清涼寺に重要文化財として所蔵されている。それは全三巻に仕立てられているうちの一巻であり、 第一巻は、法然上人と証空上人の、「四月三日付自筆消息」を合装したものであり、第二巻は、「熊谷直実自筆誓願状」と同じく自筆のこの 「夢記」とを合装し、縦27.2cm、横は五枚の紙を継ぎ合わせた全長2m12cmに及ぶ、長い巻物になっている。第三巻は、 「迎接曼茶羅由来記」である。

 「夢記」は、元久3年10月1日夜に、40歳ばかりの僧と往生の法を論じ、 敗れた僧が消えてなくなった夢を見、同じ夜、氏神の御獄が正月1日に福神として訪れ直実を寿いだことを記している。

 

 

 

 

●建永2年(1207)正月 「法然上人より消息、名号が届く」

 あるとき、法然上人は源智上人の願いによって金泥の名号に、「唯たのめよろづの罪は深くとも 我が本願の有らむかぎりは」と、 歌を書き添えて与えた。これが、問題の金泥の名号である。
 源智上人が縁者の願いによってこの名号を臨終の人の枕元に掛けたところ、その人の命終のときが近づくと、この名号は金色の光を放ち、 目も開けられぬほど家中が輝いた。そして、音楽が天から流れ聞こえ始めると、阿弥陀佛、観音・勢至両菩薩をはじめとし、 二十余の菩薩たちが来迎し、往生を遂げるという奇瑞を発したという。

 これを聞いた蓮生がじっとしていられるわけはなく、さっそく源智上人の庵を訪ね、この金泥の名号を拝んでいた。ところが、 何故であろうか、それともやっぱりであろうか、蓮生は無性にこの奇瑞の名号が欲しくなってしまったのである。さりとて、「欲しい」 と言っても譲ってくれるはずもなく、しかし「欲しい」という気持ちは抑えられず、気が付くと名号を自分の懐にしまい込んで帰ろうとしていた。 「これでは盗人になってしまう」、そう思ったのか蓮生は「あまりの有り難さに秘かに預かり受け、大事にいたします。蓮生」と書き付けを残し、 足早に帰って行った。
 この書き付けを見て、源智上人の弟子たちは驚き、蓮生のもとに取り返しに行ったのであるが、蓮生は、「断りもなく持ち帰ったとは、意外な。 口で申すのは偽りあると存じ、ことわり書を如来さまの前で訳を申して置いてきたわ。大切な名号を盗まれたとは何事ぞ。盗みはせぬわ。 こうなっては堪忍ならぬ。是非と申さば腕ずくじゃ。」と開き直り、弟子たちを追い返してしまった。

 冷静になると蓮生は自分のしたことの重大さに反省し、「自分のような悪人でも往生できるのか、 自分のような腹悪しき者(短気で怒りっぽい者)でも往生できるのか、源智上人より金泥の名号を無理矢理取り上げてしまったが、 それも罪になるのか。」と、法然上人におのれの罪を問う手紙を書き送った。源智上人よりことの次第を聞いた法然上人は、「なるほど、 さなれど盗みは盗みなり」と子供の悪戯に等しいその行為に苦笑し、同じ金泥の名号を添えて、蓮生にこう返事をしたためた。

 

「・・・又勢観房へ書てさづけ候金色の名号あまりほしさに、押さえてとらる由うけ給候。是は罪がくるしからざるかの御尋承り候。 たとひ罪にならず共、他人のものを押さえて取る法や候。其上大なる罪にて候。急ぎ返され候へ。是もはら悪しきからおこる事にて候。 志はあはれに候ほどに名号書て参候。

 つ井の歌は真如堂の如来よりさづけ給ひ歌にて候。金色にしたく候へども、いそぐ便宜にて候程に、墨のまま参せ候。 京と国と程遠く候ほどに、しるべに判を加へて参らせ候。悪筆にて人の見候事もはばかりながら、師弟の契約にて候へば、かつうは形見に候、 穴賢。
建永二年正月朔日

熊谷入道殿                    源 空 

 唯たのめ 萬の罪は 深くとも 我本願の あらむ限りは   」

(『応声教院蔵本』、『真如堂縁起』)

 

 名号が源智上人に戻り、世間にある欲からくる盗みとは違い、安楽浄土を願って一途に生きている蓮生の心情を源智上人は痛いほど感じ、 同じ念仏者として共感を強めたと言われている。

 

●承元元年(1207)4月 「熊谷入道宛・証空自筆消息」(京都清涼寺蔵)

 清涼寺の迎接曼茶羅二幅、及びその由未記とともに伝来し、現在の装丁は源空・証空の消息二通を一巻に仕立てたものである。 本書は証空の消息部分であり、四月三日熊谷入道殿とあることから、熊谷蓮生房直實に宛てたものであることがわかる。
 文中に「しこしりして、わうさうする人々は、入道殿にかきらすおほく候、かやうにしほくを……」 とあり蓮生房の往生宣言に関係するものと考えられており、この四月三日は承元元年(一二〇七)前後のことと考えられている。また、 それに続き「うれしさをむかしはそてにつつみけり□□房の御返事也」」とやや趣を異にした筆致にて染筆されている。連綿を多用し、 変体仮名を用いて書写されており、証空の卒意の書が窺える。

「二字ともかへしまいらせ候ぬ。
御ふミ又候めり。
およそこのでうこそ、とかく申にをよび候はずめでたく候へ。
わうざうせさせ給たらんにハ、すぐれておぼえ候。
しごしりてわうざうする人々ハ、にうどう殿にかぎらずおほく候。
かやうにじぼくをおどろかす事ハ、まつだいにハよも候はじ。
むかしもだうさくぜんじばかりこそおハしまし候へ。
返々申ばかりなく候。
ただしなに事につけても、佛道にハまじと申事の、ゆゆしきだいじにて候なり。
よくよく御ようじむ候べきなり。
かやうにふしぎをしめすにつけても、たよりをうかがう事も候ぬべきなり。
めでたく候にしたがひて、いたはしくおぼえさせ給て、かやうに申候なり。
よくよく御つつしみ候て、ほとけにもいのりまいらせ給べく候。
いつか御のぼり候べき。
かまへてかまへてのぼらせおハしませかし。
京の人々、おほやうハみなしんじて、念佛をもいますこしいさみあひて候。
これにつけても、いよいよすすませ給べく候。
あしざまにおぼしめすべらず候。
なをくめでたく候。
あなかしこなかしこ。

   四月三日。証空
熊谷入道殿へ

 「うれしさを 
    むかしは 
      そでにつつミけり」

       □□ハうの御返事也」(清涼寺蔵『証空自筆消息』)

●承元元年(1207)9月 「熊谷予告往生」

 建永元年秋、蓮生は村岡の辻に高札を立て「明年二月八日に往生すべき仏勅を給わった。疑うものは来たり見るべし」と往生を予告した。 しかし、翌年二月八日には往生ならず、九月四日と定めた

 九月一日朝より蓮生は沐浴し、袈裟を着け、上人より授かった画をかけ、端座合掌した。 念仏の声が高くなると、息が絶え、口より光明を放ち、紫雲が軒にたなびき、音楽が聞こえ、四方に芳香が流れた。六日、 棺に入れるとき、再び芳香、音楽の奇瑞があり、紫雲が西より来たり草庵の上にとどまること一とき、やがて西を指して去って行った。

(『蓮生法師一代絵伝』)

 

●後書き

 昨今、日本人は武士道の精神を思い起こすべきであるなどという論調が流行っていますが、「サムライニッポン」 などというキャッチコピーをお聞きになったこともおありかと思います。ですが、武士とはそんなに美しいものでしょうか。強きを挫き、 弱きを助ける、主君のためなら命をも投げ出す、そんな格好良くもて映やされていますが、実際の武士は違います。所領の安堵のため、地位・ 名誉のため、戦さでは多くの敵兵を薙ぎ倒し、ときには親兄弟までをもその手に掛け、多くの命を摘み取るのが武士なのです。

 熊谷直実もこのひとりでしたが、彼は武士としての道を突き進むことを選ばず、有縁無縁の衆生と共に蓮の上に生まれる道を選び、 法然上人の門をたたいたのです。
 今のわたしたち、出世のためには他人をも陥れたり、われ先にと自分勝手な振る舞いを、つい、してしまいます。 競争主義の現代社会では致し方ないことなのかもしれませんが、私のような若輩者が申し上げるのも失礼かとは思いますが、今、 あらためて自分を振り省ってみとどうでしょうか?

 『一の谷嫩軍記』「熊谷陣屋」の段の最終幕で、僧形で去っていく姿があります。熊谷さんが最後に選んだ道は、
これは、所領・地位・名誉を守る騎馬に乗る剛々しい鎧姿の武士ではなく、心を守る、心の安住を求める墨染めの衣をまとった念仏行者であった、 ということを、この歌を通して、みなさんにおわかりいただけたらと思っております。
 熊谷さん、と言ったら「直実」では無く、「蓮生」と出てくるようになったらなあ、と思っております。