●平成18年は蓮生法師800年遠忌です

*詳細は後日、ご案内させていただきます。

*詳細は後日、ご案内させていただきます。
今から約八百六十年前、平家一族の平盛方が天皇の怒りに触れて罰を受けた。その子直定と母は都を逃れ、 縁をたよりに武蔵国の小沢大夫のもとに身を寄せていた。
当時の関東平野は未開の原野が広がり、洪水になると荒川が北関東の平野を自由に気ままに流れた。直定が成長し、十六歳のとき、 武蔵国大里郡に猛熊が出没し、近隣の人々を悩ましていた。私市党の武士達は領内のこととて、 これを討ち取ろうと数度にわたり狩りをしていたが、巨大な猛熊のため討ち取ることができず、やむなく「熊を退治したものには、 私の党の旗頭となし、所領を与える」と高札を立てた。直定はこれを見て、「この地に来て、今所領する土地がない、良い機会である」 と武具で身をかため、熊のいる谷に出かけ、一矢で難なく討ち取り、約束の如く三百町歩の領地を得て、私市氏に属し、 ここに居宅を構えたと伝えられている。
直実は1138年(保延4)、直定の3男として武州熊谷郷(現在の埼玉県熊谷市)に生まれる。
現在の熊谷寺が建っているところに熊谷家の館があったと伝えられている。
幼いときのお名前は、弓矢丸。熊谷次郎直実、次郎というとおり次男であり、長男太郎直正(十八歳で病死)は体が弱く、
若くして亡くなってしう。またもう一人の兄は養子である。父直定も早くに(18歳で)亡くなり、
直実2歳のときに若くして熊谷家の家督を継ぐこととなる。幼少より弓矢の達人であり、性格は剛直であった。だが、いかんせん子供というか、
赤ん坊のようなものですので、叔父にあたる久下直光に世話になった。この久下直光との間に後々、
直実が出家する一因となる出来事が起こるのである。
直実19歳のとき、鳥羽法皇の崩御を機に、皇位継承争いが起こった。これに摂関家相続問題が絡み、上皇と天皇、 藤原家がそれぞれ武士団を従えて、保元の乱が勃発した。
直実は源義朝に従い、多くの坂東武士とともに後白河天皇のもとに馳せ参じた。
勝つためには手段を選ばぬ骨肉相はむ源平の親子兄弟別かれての戦いは予想以上に厳しいものとなった。結果は、
後白河天皇方の勝利に終わったが、これより貴族社会から武家社会へと時は傾き、戦乱の世となっていった。源平の葛藤、戦乱によって、
いずれかが勝者となり敗者となる悲劇は、下級武士のみならず、一般庶民にいたるまで生じ始めたのである。
直定は二人の子があり、長男太郎直正(十八歳で病死)と次男次郎直実であった。早く父を失い、久下権守直光に養育された直実は、
幼少より弓矢の達人であり、性格は剛直であった。保元の乱に続いて、平治の乱には源氏に従い都に上り、各所の合戦に勇威をふるい、
一騎当千の高名をあげた。中でも、平治の乱には悪源太義平に従い、侍賢門十七騎の随一といわれた。
しかし、戦さは平家方の勝利に終わり、大将の義朝も最期は救いを求めて頼った尾張の長田庄司忠到に欺かれ、湯殿で38歳の生涯を閉じた。
落武者となった直実は、昼は笹の下に隠れ、夜は間道を通り、ようやく熊谷へと到着したのである。
大番役とは、諸国の武士が交替で上京し、皇居の警備の任につく、奈良時代より続く大宝律令に基づく地方武士の勤めである。
叔父の久下直光は、費用がかさむことと煩わしさのため、そして病気との理由で、幼少から養育した恩に報いよと、直実を大番役に立てた。
都への憧れと、叔父久下直光へ機嫌がとれると喜んで引き受けた直実であったが、華やかな平家の武士に比べ、
大番役の武士たちは自ら用意した所持金で生活をまかなっていたため、日々の食料も十分ではなかった。また、人と人との関係も、
地位や財力がないと冷ややかであり、久下直光の代人である故に下人扱いされ、
都での生活も熊谷の生活と同じく甘いものではなかった
「新中納言知盛卿ニ属シ、多年ヲ送リヲワンヌ」(『吾妻鏡』)
賞金目当てで参加した力くらべの相撲に参加した直実は、日頃、荒川の大石を相手に鍛えた腕力で、次から次へと10続けて投げ飛ばし、
その賞金を得たのである。これを見て、気品ある15、6の若い武士が直実に声をかけ、仕官を誘った。清盛の第4子平知盛であった。
治承四年秋、前右兵衛佐頼朝が石橋山で旗揚げしたが、
相模の大庭三郎景親率いる三千余騎に攻め落とされた。このとき直実は大庭の催促によってやむなく頼朝の陣に弓を引いたが、
頼朝が土肥の椙山に難を逃れ、安房、上総にいたり、勢力を回復して武蔵国豊島原に陣をしき、関東の武士たちが源氏の応じた折、
直実も頼朝の陣に参加した。
大庭三郎景親に破れた頼朝は、数名の家臣と山腹の臥木の大洞に忍んでいた際に、直実と梶原景時に発見された。
もはやこれまでとと覚悟を決めた頼朝に、そのまま潜んでいるようにと告げ、辺りにあった宿り木(ほや)の枝をとって大洞の口を隠した。
後からあらわれた大庭勢が疑わしくしていると、直実は「こんな朽木の中に源氏嫡流の佐殿が入られるはずはあらず」と大庭勢を制した。
そのとき、この朽木より2羽の鳩が飛び出したため、「野鳩がいるようなところに人はいないであろう」と納得し、
他を探しにその場を離れていったのである。
テレビドラマなどでは、梶原景時公が頼朝公を助けたとよく描かれているが、『熊谷家文書』では、
直実が頼朝公を助けたのだと伝えられている。
その証拠に、直実は後に頼朝公から陣幕を拝領しており、この陣幕には、ほやの木(宿り木)の上に鳩が向かい合って2羽とまっている、
「ほやに向かい鳩」という紋が染め抜いてある。これがこれ以後熊谷家の家紋となっていることから、頼朝公を助けたのは直実だ、
と伝えられている。
また、後でのお話であるが、直実は頼朝公に対して何度か随分失礼なことをしております。ですが、ほとんどおとがめが無い。
そういったことから考えてみましても、やはり頼朝公を助けたのは直実であったのであろうと伝えられている。
「源頼朝卿ハ石橋山ノ戦ニ破レシ時、伏木ノ内ニ隠レタリ。直実ハ蔦葛ヲ取ツテ頼朝ノ上ニ覆フ、ソノ後、木ノ中ヨリ鳩ガ出テキテ去ル。 敵ハコレヲ見テ、人無シト謂ヒ、兵ヲ引キ上ゲル。頼朝ハ直実ノ忠ニ感ジテ、蔦葛ヲ家紋トナサシム。」 (『北条系図』)
頼朝は、この危機から脱したのは八幡宮の御加護であるとし、その後、 御旗にも伊勢大神宮八幡大菩薩の文字の下に白鳩2羽を八文字に縫わせた。また、本陣の幕には、蔦車に八文字の鳩を染め抜いて用いた。 これを恩賞として直実に賜り、これにより熊谷家は、蔦に鳩を定紋としたのである。
以仁王の「令旨」は諸国源氏の決起を促し、9月17日には信濃源氏木曽義仲が挙兵し、10日には甲斐源氏武田信義・信光が挙兵した。
直実は、頼朝軍の一武将としてこの富士川に控えた。
源平両軍は富士川を挟んで対陣していた。10月20日、武田軍が平家の背後に廻るため河口付近を渡ろうとしたとき、 その騒ぎに驚いた水鳥たちが数万羽飛び立った。これを大敵来襲と勘違いした平家軍は、慌てふためき逃げまどい、 壊滅状態に陥り敗走したのである。
慌てて敗走する平家に対し、頼朝は冷静であった。直ちに追撃、上洛はせず、鎌倉背後の常陸国佐竹太郎義政・
秀義を平定する指示を出した。佐竹氏の勢力は領外にも及んでおり、またその郎党は国中に拡がり、平家に恩顧を抱いている者も多かった。
11月4日、険しい絶壁を利用した山頂に建つ金砂山城に、直実は平山武者所季重とともに先頭で攻め入った。
「十一月七日 乙卯 軍兵ノ中、熊谷二郎直実、平山武者所季重、殊ニ勲功アリ。
所々ニオイテ先登ニ進ミ、サラニ身命ヲ顧ミス、多クノ凶徒ノ首ヲ獲タリ。ヨツテソノ賞傍輩ニ抽ンツヘキノ旨、直ニ仰セ下サルト云々。」
(『吾妻鏡』)