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2006年04月07日

●保延4年(1138) 「直実生誕、幼名弓矢丸」

 今から約八百六十年前、平家一族の平盛方が天皇の怒りに触れて罰を受けた。その子直定と母は都を逃れ、 縁をたよりに武蔵国の小沢大夫のもとに身を寄せていた。

 当時の関東平野は未開の原野が広がり、洪水になると荒川が北関東の平野を自由に気ままに流れた。直定が成長し、十六歳のとき、 武蔵国大里郡に猛熊が出没し、近隣の人々を悩ましていた。私市党の武士達は領内のこととて、 これを討ち取ろうと数度にわたり狩りをしていたが、巨大な猛熊のため討ち取ることができず、やむなく「熊を退治したものには、 私の党の旗頭となし、所領を与える」と高札を立てた。直定はこれを見て、「この地に来て、今所領する土地がない、良い機会である」 と武具で身をかため、熊のいる谷に出かけ、一矢で難なく討ち取り、約束の如く三百町歩の領地を得て、私市氏に属し、 ここに居宅を構えたと伝えられている。

 直実は1138年(保延4)、直定の3男として武州熊谷郷(現在の埼玉県熊谷市)に生まれる。 現在の熊谷寺が建っているところに熊谷家の館があったと伝えられている。
 幼いときのお名前は、弓矢丸。熊谷次郎直実、次郎というとおり次男であり、長男太郎直正(十八歳で病死)は体が弱く、 若くして亡くなってしう。またもう一人の兄は養子である。父直定も早くに(18歳で)亡くなり、 直実2歳のときに若くして熊谷家の家督を継ぐこととなる。幼少より弓矢の達人であり、性格は剛直であった。だが、いかんせん子供というか、 赤ん坊のようなものですので、叔父にあたる久下直光に世話になった。この久下直光との間に後々、 直実が出家する一因となる出来事が起こるのである。