« 文治元年(1185) 「吉水の禅房、法然上人を訪ねる」 | メイン | 寿永3年(1184)2月 「平経盛に遺品及び一文を送る(送リ状)」 »

2006年04月07日

●寿永3年(1184)2月 「平経盛より礼文が届く(返シ状)」

 末子の敦盛のことを、殊のほか案じていた修理太夫経盛は、御首、遺物、書状を受け、「ありがたきかな、かかる人の手に討たれしば」 と、返書をしたためた。

「今月七日、摂州一ノ谷に於いて敦盛を討たれ死骸並びに遺物送り給はり畢んぬ、花落の故郷を出で、各々西海の波の上に漂ひしより、 以来運命の尽きる事、始めて思ひ驚くべきに非ず、又戦場の上に望んで何ぞ二度帰る事を思んや、生者必滅は穢土の習ひ、老少不定は常の事也、 然りといへども親となり子となる事先世の契約浅からず、釈尊も御子羅喉羅尊者を悲しみ給ふ、応神権化猶以て斯くの如し、 況や底下白地の凡夫に於いておや、然るに去る七日、打ち立し今日に至るまでその俤げ未だ身を離れず、来燕囀づると雖も其の声聞く事なく、 帰雁翅を双へて飛び帰ると雖も音信を通ぜず、必定討たるヽの由伝え承ると雖も未だ其の実否を聞かざるの間、何ぞ風の便りに其の音信を聞かん、 天を仰ぎ地に臥して神仏に祈誓し奉り感応を相待つ処、七ヶ日の内彼の死骸を見る事を得たり、是れ即ち神仏の与ふる所也、然る間、 内信心弥々肝に銘じ、外感涙之れを増す心を催し袖を浸す、但し生きて二度び帰り来るが如し、又是則ち相活きるに同じ、 抑々貴辺の報恩に非んば争で之を見る事を得んや、一門風塵皆以て之を捨つ、況や怨敵をや、和漢両朝を尋るに古今未だ其の例を聞かず、 貴恩の高き事須弥頗る下くし、報恩深き事蒼海還りて浅し、進んで之に酬いる未来永々たり、退いて然して報ずるに過去遠々たり、 万端多しと雖も筆紙に尽くし難し、併せて之を察せよ。
        恐惶謹言
 二月十四日
熊谷二郎殿 御返事    」
(当寺什物『経盛返状』)