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2006年04月07日

●寿永3年(1184)2月 「無官太夫平敦盛を討ちとる」

 いくさに敗れ、平家の君達は助け船に乗ろうと、汀の方へと逃げていった。その中に、練貫に鶴を縫いあしらった直垂に、 萌黄の匂の鎧をつけ、鍬形をうった甲、黄金造りの太刀、切斑の矢、しげ藤の弓、 連銭葦毛なる馬に黄覆輪の鞍をいている武者一騎を直実は見つけた。


「あれは大将軍とこそ見まいらせ候へ。まさなうも敵にうしろを見せさせ給ふものかな。かへさせ給へ。」  

 

 直実にそう扇ぎをあげられると、その武者はとって返ってきた。格闘の末、直実は、とっておさえ、 頚をかかんと甲を押し上げてみると、我子小次郎くらいの年齢で、薄化粧し、容顔美麗にて、どこに刀を立てるたらよいのかと躊躇した。

「抑いかなるひとにてましまし候ぞ。名のらせ給へ、たすけまいらせん。 」と申せば、「汝は誰そ」ととひ給ふ。「物そのもので候はね共、武蔵国住人、熊谷次郎直実」と名のり申。 「さてはなんぢにあふてはなのるまじいぞ、なんぢがためにはよい敵ぞ。名のらずとも頚をとって人にとへ。見知らふずるぞ。」とぞの給ひける。

 武者がこう言うのを聞き、直実はこう言った。
 
「あっぱれ大将軍や、此人一人うちたてまつたり共、 負くべきいくさに勝べき様もなし。又うちたてまつらず共、勝津べきいくさにまくることよもあらじ。助けたてまつらばや。」
 
 小次郎が軽い傷を負っただけでも直実は心苦しく思うのに、この武者の父が、討たれたと聞いたらどれ程嘆かれることであろう、と思い、 見逃そうと考えたのである。
 しかし、後ろに、源氏方の武士たち五十騎ばかりがどんどん近づいてくるのを見ると、直実は涙をおさえ言った。
 
「たすけまいらせんとは存候へ共、御方の軍兵雲霞の如く候。 よものがれさせ給はじ。人手にかけまいらせんより、同じくは直実が手にかけまいらせて、後の御孝養をこそ仕候はめ。」と申しければ、 「ただ疾く疾く頚をとれ」とぞの給ひける。
 
 直実はあまりにもいとおしく思い、どこに刀をたてたらよいものかわからず、迷っていたが、そうしてもいられず、泣く泣く頚を落とした。
 
「あはれ、弓矢とる身ほど口惜かりけるものはなし。 武芸の家に生まれずば、何とてかかるうき目をばみるべき。なさけなうもうちたてまつる物かな。」
 
 しばらくたち、直実は、鎧直垂をとって頚を包もうとすると、錦の袋に入った笛が腰にさしてあるのに気づいた。
 
「あないとおし、この暁城のうちにて管弦し給ひつるは、 この人々にておはしけり。当時みかたに東国の勢なん万騎かあるらめども、いくさの陣へ笛もつ人はよもあらじ。上臈は猶もやさしかりけり。」
 
 九郎御曹司(源義経)の見参に入れるにあたって、これを見て涙を流さないという人はいなかった。後に聞くと、 修理太夫経盛の子息太夫敦盛ということで、生年十七とのことであった。笛は名を小枝といい、祖父忠盛が鳥羽院より給わり、 経盛が相伝されたものを敦盛が所持していたのであった。
 この一件により、以前より武士としての自分に無常を感じていた直実の発心のおもいはいっそう強いものとなったのである。
「平家物語」では次のように結んでいる。
 
「狂言綺語の理といひながら、遂に讃仏乗の因となるこそ哀なれ。」
 
参考:「平家物語」 日本古典文学大系 岩波書店発刊

 狂言綺語とは、常識を逸し、巧みに飾った言葉の意、讃仏乗とは、仏法の功徳を讃え、 広く人々を悟らせるという意味である。敦盛を討ったことが、いくら悲しくも美しく涙を誘う話であったとしても、 所詮は人を殺めたことに変わりはない。そのことが、直実が仏門に入ったきっかけとなったことは悲しいことである。 できれば他のことがきっかけで仏の道に入れればよかった。直実47歳のときのことである。