« 文治2年(1186) 「大原問答」 | メイン | 寿永3年(1184)2月 「平経盛より礼文が届く(返シ状)」 »

2006年04月07日

●文治元年(1185) 「吉水の禅房、法然上人を訪ねる」

 「武蔵国の御家人、熊谷の次郎直實は、平家追討のとき、所々の合戦に忠をいたし、 名をあげしかば、武勇の道ならびなかりき。しかるに宿善のうちにもよをしけるにや、幕下将軍をうらみ申事ありて、心ををこし、出家して、 蓮生と申けるが、聖覚法印の房にたづねゆきて、後生菩提の事をたづね申けるに、さようの事は法然上人に、たづね申ベしと申されければ、 上人の御庵室に参じにけり。」 (『法然上人絵伝(四十八巻伝)』第二十七巻)

 これによると、蓮生の出家の原因は将軍(源頼朝)との関係にあるというのである。『平家物語』などでよく知られているような、 平敦盛を心ならずも討ち取ったためなどということは一言も書かれていない。つまり、蓮生の出家の直接の原因は『吾妻鏡』 にも記載されているように、所領争いの果ての始末なのである。ただ、敦盛を討ち取ったことなども影響を与えてないとは言えない。 こんなことまでしたのに、こんな仕打ちを受けるのか、という何ともやるせない思いが頭の中を占めたのが本当のところであろう。 なにはともあれ、このような経過を経て、直実は出家することとなったのである。

 さて、いざ出家といっても直実はどうしたらよいのか分かるはずもなく、以前知人から紹介された聖覚法印(一説では、 聖覚法印の実の父であり法然上人の弟子でもある澄憲法印とも言われている)を訪ねるが、そのときの様子は『蓮生法師一代絵伝』によれば、 聖覚法印を待っている間、蓮生は懐から鎧通しを取り出し、手水鉢にて研ぎだしたのである。 これを見て取り次ぎの者が恐る々るどうされたのかと尋ねると、直実は、

 「これへ参るは、後生の事を尋ね申さんがためなり、もし腹を切り命を捨てねば、 後生は助からぬと承らば、腹をも切らん料(かんがえ)なり。」

と答えたという。

 聖覚法印は、それならばと法然上人を紹介されたので、直実は法然上人を訪ねることとなったのである。かくして、 初めて法然上人に対面したのである。その様子は以下の通りである。

 「罪の軽重をいはず、ただ念佛だにも申せば往生するなり、別の様なしとの給をききて、 さめざめと泣ければ、けしからずと思たまひてものもの給はず、しばらくありて、なに事に泣給ぞと仰られければ、手足をもきり命をもすててぞ、 後生はたすからむずるとぞうけ給はらむずらんと、存ずるところに、ただ念佛だにも申せば往告するぞと、やすやすと仰をかふり侍れば、 あまりにうれしくて、なかれ侍るよしをぞ申ける。まことに後世を恐たるものと見えければ、無智の罪人の念佛申て往生する事、 本願の正意なりとて、念佛の安心こまかにさづけ給ければ、ふた心なき専修の行者にて、ひさしく上人につかへたてまつりけり。」 (『法然上人絵伝(四十八巻伝)』第二十七巻)

 法然上人は、「罪の軽重を問わず、ただ念仏さえ称えれば、極楽に往生することができる」と教えられた。
 それを聞いた直実は、さめざめと泣いてしまったという。不審に思った法然上人が尋ねると、

「自分は手足を切り、命をも捨てて、はじめて往生できると聞いていたが、今、上人から、 ただ念仏さえとなえれば往生することができるということを聞き、あまりのうれしさに泣いてしまった」

と答えたというのである。

 良く言えば感受性豊かで真っ直ぐな性格、悪く言えば単純で融通のきかない性格、このような楽しいことには大声で笑い、 悲しいことには大声で泣くという、人の感情を押し隠さずにさらけ出す直実である。
 このお言葉をいただいた直実は、名を法力房蓮生法師とあらため、欣求浄土の念仏行者としての道を歩み始めることとなる。