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2006年04月07日

●文治2年(1186) 「大原問答」

 浄土宗開宗から10年余りを経て、法然上人の名も日ごとに高まっていった文治2年(1186)秋、 法然上人は後の比叡山第六十一代座主となる顕真法印から浄土教についての「談論(討論会)」をお願いされる。場所は京都大原の勝林院、 南都北嶺の大徳碩学など三百人以上が集まる大宗論大会となった。談議の内容は別の機会に譲るとして蓮生法師を中心に話を進めたい。

 例のごとく、蓮生は法然上人のお供をすることとなったのであるが、弟子たちのよからぬ噂を耳にした。 勝林院に集まる多くの聴衆のなかには、「念仏停止」を訴える過激な僧徒が法衣の下に刀剣を隠し持ち、 仏罰と称して法然上人を襲撃するのではないか。蓮生はこれを聞き、法然上人に一大事があってはならないと法衣の下に鎧を着込み、 帯には鉈(短刀)を忍ばせて出かけることとなった。仏門修行中とはいえ、「板東一の剛の者」 と称された蓮生の武士としての血が騒いだのであろうか。

 法然上人一行は、勝林院手前にて石に腰掛け一休みする。その蓮生の姿を法然上人は見咎めて、
 「帯に差しているものは何か」
と尋ねられ、
 「僧形に不似合いのもの故、捨てよ」
と命じた。蓮生は法然上人の仰せに逆らうことはできず、やむなく鉈を近くの竹藪の中に投げ捨てたと伝えられている。

  この場所は、現在の大原三千院近くの律川と呼ばれる谷川に掛かる萱穂橋を渡りきったところで、「熊谷腰掛石鉈捨薮」 と刻まれた石碑が建っている。

 後日、法然上人は蓮生に、鉈の代わりにと「利剣即是弥陀号 一声称念罪皆除」 と記された南無阿弥陀仏の名号を賜れた。利剣は即ち弥陀の名号なり、一声称念すれば罪は皆除かれる、という意味である。 この名号は「利剣名号」と称され、現在当寺院に収蔵されている。