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2006年04月07日

●文治3年(1187) 「所領の一部を没収される」

 小次郎直家から帰郷を促す便りを受け取り、熊谷へと戻った直実に鎌倉より呼び出しがあった。鶴丘八幡宮において「放生会」 が行われることとなったのである。この放生会の重要な儀式として「流鏑馬」が行われることとなったが、直実には「射手」ではなく「的立役」 が割り当てられた。
 千軍万馬の戦場で、馬上での剛弓を駆使してきた直実にとって、この役はこの上ない屈辱であった。

「八月四日 壬申、今年鶴岡ニオヒテ放生会ヲ始行セラルニテ(中略) 流鏑馬ノ射手ナラビニ的立等ノ役ヲ充テ催サル。ソノ人数ニ熊谷直実ヲモツテ、上手ノ的ヲ立ツベキノ由仰セラルルノトコロ、 直実鬱憤ヲ含ミ申シテ云ク、御家人ハ皆傍輩ナリ。シカルニ射手ハ皆騎馬ナリ。的立ノ役人ハ歩行ナリ。スデニ勝劣ヲ分ツニ似タリ。 カクノゴトキノ事ニオヒテハ、直実厳命ニ従ヒガタシト云ヘレバ、重ネテ仰セラレテ云々。」 (『吾妻鏡』)

 頼朝は重ねて命令し、梶原景時も早く勤仕すべきと諭したが、直実は「お断りします」と言い残し、熊谷へ帰ってしまったのである。
 命令に従わなかった直実にはその科として、所領の一部が没収された。

「直実ツヒニモツテ奉ワリヲ進スルニ能ハザルノ間、 ソノ科ニヨツテ所領ヲ召シ分タルベキノ旨仰セ下サルト」  (『吾妻鏡』)