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2006年04月07日

●文治4年(1188) 「佛導寺にて、玉鶴姫との再会」

「善光寺御奮蹟(七塚の一)姫塚由來

我等仏導寺は、今(昭和十一年)より七百四十九年の昔八十二代後鳥羽天皇の御宇即ち文治四年の秋、善光寺如来の感顕に因り、 武蔵国の御家人熊谷次郎直実入道その息女玉鶴姫のために建立し連綿今日におよぶ。
今其由來を按するに源平の戦ひに英名を馳せた熊谷直實が一の谷に平敦盛を討ち取りて以来世の無常を感じて居た折から鎌倉にて、 久下権の守直光と地境を争ひ遂に敗れ益々浮世の果敢なきを悟り旧知伊豆国走湯山に聖覚法印の庵を訪ね、 後生菩提の事を尋ねたるに左様の事は京の黒谷に在す法然上人に尋ね給ひと申され、サラバとて京に上り、 法然上人のもとに剃髪し専ら身を修道に委ねぬ。熊谷の館内室は夫の身を案じつつ遺児の玉鶴姫を養育し居たり。 然るに偶々病床に臥し遂に帰らぬ旅路に赴く。玉鶴姫の悲歎は後の世を欣う心のもととなり、文治四年の春をそよに侍女一人を具し、 信濃善光寺に参らむと故郷を後に出発し途に深谷の禅刹国済寺に宿る。
時に住僧の申さるる様若き御身方旅中如何なる変有らむも図り難し、剃髪染衣の身と成りて所志を果されよとて、
懇ろなる勧めに両人大いに喜び、即ち師と頼み玉鶴は妙蓮、侍女は皓月と法号を付せらる。かくして二人は同寺を辞し信濃路さし旅立つ。 住僧には深く二人の志を感じ信濃追分の駅まで見送りて別れぬ。
日を経て二人は川中島の綱島に着きたる時、姫は長途の疲れで遂に重き枕につきたり、侍女の心労一方ならず、此
川一筋越しなば如来の在ます浄土なりと、病者を扶け川岸に致るに、前夜来大雨降り川は増水し、夜は更け、渡し守の影だになし。 侍女の思う様吾等は善光寺如来に詣らむためはるばるここに来る、主妙蓮尼の初一念を果さず、今ここに終焉させ参らする事、 この上の遺憾や有る可からず、せめて如来の在ます土なりと踏み参らせたくと病める姫を励まし、自からは微かに見ゆる如来前の御灯りに向ひ、 誠心をこらし主妙蓮の素志遂げさせ給ひと一心不乱に念仏申しける時に気高き翁現はれ、疲れと病ひに苦しむ主従を懇ろに労はり、 我れ綱を曳き船をやらむと、侍女の申す何れの御方ならむか此の増水にては如何あらむと申し了らぬ内に、いざこの船に乗り玉ひと、 侍女は嬉し涙とともに主の妙蓮尼を扶け船に乗り一層念仏申しける、瞬くうちに岸に着きたり、侍女の喜び限りなく妙蓮尼は更なり。 然る処に翁は立ち去らむとするに侍女はあはただしく翁に向ひ、御身は如何なる御方ぞと尋ねたるに、 我こそは御身等が信ずる善光寺如来ぞと答へられたと思ふ内て、光明赫然と輝き其の姿は何処となく消へ給ひり。
二人は夢かと計り侍女は左すれば吾等船に乗りし時綱を曳ける翁の足船に附かず、 奇異の思ひを成しつつありしに今眼のあたり御告けを蒙り洵に有難く忝く感じ、いよいよ信心堅固に尚はも念仏申しける程に、 姫の妙蓮は病ひいよいよ重り其中にも念仏申しけるに其辺り異香複郁として薫る。侍女皓月尼は益々奇異の感に打たれつつ介抱しける。
時に直実は名も蓮生と改め、其師法然上人が曾て善光寺へ参籠されしに倣ひて、過ぐる日より善光寺にて日夜如来へ参籠の功を積み居たり、 或る朝南の方に紫雲の棚曳きを見、蓮生法師は驚き怪しみ、尋ね行くに市村の里なり。そこに二人の尼僧ありその一人は、最早最後の有様なので、 法師は悲喜交々の体にて早速ても有難き御臨終かな御身方は何国の如何なる御方ぞと尋ねらる。 其時看護してありし侍女の皓月尼は溢れ出つる涙を押へながら、わたくし達は武蔵国熊谷の里より参りたる者にて……と次第を物語りぬ、 熊谷蓮生法師は驚き胸も張り裂く思ひにて言葉も出でず一時は只頬を伝ふ涙をも拭き得ず、在りしも今は恩愛の絆を絶ちし出家の身、 争でか愛欲の煩悩にひかれ三悪の巷に迷はんやと、心を励まし胸に燃ゆる思ひを左あらぬ態に装ふも親子の温情秘し難く、 法師の有様を見て取りたる妙蓮尼は病苦の中より申す様、御僧は若しや妾が父上にて在しまさずや、今妾は御覧の通り臨終に近し、 父上にて在さば、息女玉鶴と一言給はれと申しける。流石の法師もおどる心を押へ押へ居られしが、悲嘆の涙は止めどなく出、 恍惚として暫し言葉もなく只念仏を口ずさみ紛はし居られける程に傍らより侍女口を添へしに、法師は心取り直し吾僧は左様の者に侍らず、 九州の者にて去る頃より黒谷の法然上人に就き浄土念仏の一行を専修し、今は回国修行を思ひ立ち名高き善光寺如来に参籠、 今日此処に紫雲の奇瑞を見て来るなり。
吾僧先きに師上人の許に在りし時、紫雲の棚曳く処必ず大往生人ありと宣ふ、今初めてこの奇瑞を見る事誠に有難くと随喜の涙を湛へ、 更に二人にむかひて言はるる様、思ひ出せば熊谷なる御坊は師上人の許に在りし時同行にて、今は吾僧と同じく回国修行の由、 再会の事も侍ふは御身の事具さに申し伝へ侍らむ。吾僧今涙を催せしは若しや真の父熊谷ならばと其心を推し測りなるにて侍るなりと。 更に姫妙蓮尼に向ひ御身の往生最早近し、必ず聖衆の来迎あらむ、いよいよ念仏はげまれよ。吾僧も何かの御縁、同行として十念を授け申さんと、 侍女皓月尼をも顧し十念を授け、南無阿弥陀仏・・・・・・と一声は一と声毎に遠く、十声の了りと共に妙蓮尼は大往生を遂げ了りぬ。
時は文治四年七月吾の暁なり、然して小屋の内外に大光明を放ち異香薫りて暫し止まざりし、 法師も皓月尼も之の奇瑞を見直に善光寺如来の感現したるを喜び、いよいよ本願の有難き事を感じ、 法師は皓月尼に向ひ之れも他生の縁ならむに死体を隠し申す可しと、懇ろに葬らひ墓の印にと樹を植へたり(現に欅槻の二大樹森々として存す)、 姫塚是れなり。
其れより東方数丁の処に庵を結び姫の菩提のため開基し寺と成し、善光寺如来化現し船の綱を曳き姫を導き給ひしに因り熊谷山仏導寺と号け、 姫の法名を仏導院殿一乗妙蓮大禅定尼と授けたり。尚法師は綱を曳き給へる如来の尊
像と姫の像を自ら刻み、黒谷に上ぼせ其師法然上人に御開眼を請ひ七郎入道忠国をして当寺に持ち帰り本尊として奉安す。 即ち綱曳阿弥陀如来是れなり。国中無双の霊体なり。又法師は師上
人より授かりし紺紙金泥の大字名号一軸を遺し置かれたり、当寺の什宝として存す。 如上は善光寺如来の霊験は古来枚挙に遑あらすも熊谷主従のごときは真に浄土念仏の一行に依りて之の感験を得たる者なり、 実に有難き貴き事なり。

寳物

一.綱曳阿弥陀如来像(立像御丈二尺五寸 熊谷蓮生法師作)
 善光寺如来、仮に老翁の身を現じて、玉鶴姫を渡し玉ふ御尊影にして、熊谷入道自ら彫刻し、特に黒谷御師匠上人の御開眼を請ひ、 七郎入道忠国卿これを当寺に奉遷せられて、世に綱曳阿弥陀如来と称し、本邦無双の霊像とす。

一.紺紙金泥六字名号(一軸 法然上人筆)
 黒谷の御師匠法然上人の御真筆にして、熊谷蓮生に附属し給ひたるもの、当寺に遺留して什宝とす。「ただ愚め万の罪は深くとも、 我が本願のあらん限りは」

一.玉鶴姫像(座像丈一尺三寸 熊谷蓮生法師作)
 妙蓮尼と称し、法体の姿、宛然活けるが如し。

一.其他二三各所に散在するものあり今之を略す。」

「佛導寺縁記」