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2006年04月07日

●建久元年(1190) 「敦盛卿菩提供養の為、高野山に入る」

 二月七日、蓮生は自身もかねてから望んでいた無官大夫敦盛公の菩提を弔うため、師法然上人の勧めもあり、 高野山蓮華谷の知識院へ入った。

 ここで直実は、足利義兼入道鑁阿上人を迎え敦盛卿の七回忌引法要を厳修した。
 自分なりの修行を模索するも求めるもののなかなか見つからない直実は、熊谷のことも気掛かりとなり、高野山を下り、 熊谷へ熊谷へと向かった。

 知識院はその後焼失し、持法院として再建される。蓮生没後、小次郎直家は高野山に登り、 亡父蓮生法師と敦盛卿のために堂宇を改修し法要を厳修する。この際、三代将軍源実朝より「熊谷寺」の扁額を賜り、現在に至っている。

 境内には、このとき直家が建立した敦盛・蓮生供養の五輪塔がある。一説では、蓮生が来世での一蓮托生を願って敦盛菩提、 蓮生逆修のために建立したとも伝えられている。寺宝としては、「蓮生法師御自作霊像」、「蓮生法師陣中御守本尊多宝如来像」、 「蓮生法師陣中着用兜、鎧、陣刀二振」、「敦盛母衣の御影」、「歌の会の巻(関白九条兼実、法然上人、親鸞上人、熊谷入道の歌の版木)」、 「参議経盛卿の御返し状」などが納められている。なお、「御返し状」は蓮生の孫熊谷伊豆守直之が請い受けて、後、当寺院に寄託されている。

「圓光大師 見真大師 熊谷蓮生 御霊跡

高野山熊谷寺略縁起

   高野山熊谷寺

 當寺は円光大師・見真大師・熊谷蓮生法師の御旧跡、新撰元祖大師二十五霊場第八番の札所であります。
 當寺は桓武天皇の皇子葛原親王の御願に因り承和四年(八三七)に建立せられ宗祖弘法大師の法孫真隆阿闇梨(果隣大徳の高足) が初代住職であります。寿永三年(二八四)二月七日撮州一の谷に於ける源平の合戦に於て敗れた平家方の将兵は友軍の軍船にのがれました。 此の時遠淺の海に駒を乗入れた武将を呼び返した熊谷直実は格斗数合やがて組敷いて首級をあげようとよく見ると一子小次郎直家と同年輩十六・ 七の美少年平家の大将参議経盛の末子敦盛でありました。直実は同じ日の末明敵の矢に傷ついた直家の「父よこの矢を抜いてたべ」 との願いを耳にするも敵申の事とて傷の手当てをする暇なく敵陣深く突入した時の親心の切なさを思い起し敦盛の首を斬るに忍びず、 しばしためらったのでありますが心を鬼にして首を掻き切ったのであります。 かくて直実はほとく世の無常を感じて発心し當時日本一の上人と尊崇されていた吉水の法然上人の弟子となり「法力房蓮生」 の名を与へられ専心念仏の行者となったのであります。建久元年(二九〇) は敦盛卿の七周忌に当るにつき追福の法要を営まんと思い立ち師法然上人の指示に依り高野山に登り父祖の菩提寺であった當院に寄寓し敦盛郷の位牌及び石塔を建立し懇ろに敦盛の菩提を析ったのであります。 爾釆十四年間山に留まり念仏に専心いたしました。建仁元年(三〇一) 鎌倉将軍源平両氏の戦死者大追悼会を此の山に営んだ時法然上人その特請に遭われ親鷲上人及び圓証入道関白兼実公と共に登山一夏九旬の間当寺に留錫その頃新別所に於て称名念仏していた二十四人の杜友等と交誼を交えながら衆生済度の大願を祈求されたのであります。 或る時御三方庭前の井戸の水鏡にて各々御姿を写され自らその像を彫まれました。 そめ御尊像を奉安してあるのが表門の横に在る圓光堂であります。 又法然上人は龍華三会の暁にわが大師に値遇の良縁を結ばんが為亦末世道俗摂化の方便にもと五輸の石塔を奥の院のほとりに建立し白ら梵宇を書し 「源空」の二宇を刻んで置かれました上人の滅後弟子等相寄り御芳骨をその塔下に納め奉ったと伝えられています。 高野山円光大師廟というはこの五輸塔の事であります。
 蓮生法師承元二年(三〇八)九月十四日念仏を唱え睡るが如く往生されました。 その後直家は亡父の遺命により登山當寺の堂宇を改造修築して追孝の法要を営みました。 この事時の将軍実朝公の知るところとなり蓮生房の詠まれた「約東の念仏」の歌と「熊谷寺」と書いた扁額を寄進されました。 當寺は元智識院持宝院と号していたのをこの因縁に依り熊谷寺と改称し今日に及んでいるのであります。
 弘長四年親鷲聖人の三回忌に当り覚信尼公(上人の息女) 聖人の遺命に依って御臨終の名号並に御遺骨及び御母公玉日の前の木像を使者日野家の士下
条専右衛門頼一を遣して當寺に納められ且つ聖人が師の流れを汲んでかね
て手書しおかれた梵字を刻んで石塔を建立されました。
上述の如く當寺は承和四年創立以来ここに一千百有余年高野山の歴史と
その運命を共にしてきたのでありますが明治廿一年三月当山大火あって当
寺もその災に罹り堂舎悉く焼失したのであります。爾来先師の並々ならぬ
努力により再建され遂次坊舎の増築するあり旧に倍する規模を呈するに至
ったのであります。
これ偏へに宗祖大師の御冥護と加ふるに上来御三方の御霊光の賜物と渇
仰の微衷禁ずる能はざるものがあります。翼くは円光見真両大師の芳濁を
慕ひ念仏唱名し往生の素懐を遂げんと願ふ信者は両大師の流れを汲み登山
して弘法大師に龍華値遇の良縁をお結び下さい篤信の善男善女希はくは當
寺に参籠して仏恩報謝せられんことを。

○空海の心の中に咲く花は 弥陀より外に知る人はなし(空海)

○極楽もかくやあらましあら楽し はやまいらばや南無阿弥陀仏(法然)

○にはかなる南無阿弥陀仏の一聲に たのめばすてぬちかいなりけり(親鸞)

○約束の念仏は申すまでにそうろうよ やろうやらじは弥陀のはからい(蓮生)

○晴れやらぬ心のうちのくもりども 南無阿弥陀仏の風にはれけり(円証)

昭和四十八年二月十一日印刷
昭和四十八年二月十五日発行

和歌山県伊都郡高野山熊谷寺現住誌」

(『高野山熊谷寺略縁起』)

 

 

コメント

圓光大師
見真大師
熊谷蓮生 御霊跡

高野山熊谷寺略縁起

   高野山熊谷寺

 當寺は円光大師・見真大師・熊谷蓮生法師の御旧跡、新撰元祖大師二十五霊場第八番の札所であります。
 當寺は桓武天皇の皇子葛原親王の御願に因り承和四年(八三七)に建立せられ宗祖弘法大師の法孫真隆阿闇梨(果隣大徳の高足)が初代住職であります。寿永三年(二八四)二月七日撮州一の谷に於ける源平の合戦に於て敗れた平家方の将兵は友軍の軍船にのがれました。此の時遠淺の海に駒を乗入れた武将を呼び返した熊谷直実は格斗数合やがて組敷いて首級をあげようとよく見ると一子小次郎直家と同年輩十六・七の美少年平家の大将参議経盛の末子敦盛でありました。直実は同じ日の末明敵の矢に傷ついた直家の「父よこの矢を抜いてたべ」との願いを耳にするも敵申の事とて傷の手当てをする暇なく敵陣深く突入した時の親心の切なさを思い起し敦盛の首を斬るに忍びず、しばしためらったのでありますが心を鬼にして首を掻き切ったのであります。かくて直実はほとく世の無常を感じて発心し當時日本一の上人と尊崇されていた吉水の法然上人の弟子となり「法力房蓮生」の名を与へられ専心念仏の行者となったのであります。建久元年(二九〇)は敦盛卿の七周忌に当るにつき追福の法要を営まんと思い立ち師法然上人の指示に依り高野山に登り父祖の菩提寺であった當院に寄寓し敦盛郷の位牌及び石塔を建立し懇ろに敦盛の菩提を析ったのであります。爾釆十四年間山に留まり念仏に専心いたしました。建仁元年(三〇一)鎌倉将軍源平両氏の戦死者大追悼会を此の山に営んだ時法然上人その特請に遭われ親鷲上人及び圓証入道関白兼実公と共に登山一夏九旬の間当寺に留錫その頃新別所に於て称名念仏していた二十四人の杜友等と交誼を交えながら衆生済度の大願を祈求されたのであります。或る時御三方庭前の井戸の水鏡にて各々御姿を写され自らその像を彫まれました。そめ御尊像を奉安してあるのが表門の横に在る圓光堂であります。又法然上人は龍華三会の暁にわが大師に値遇の良縁を結ばんが為亦末世道俗摂化の方便にもと五輸の石塔を奥の院のほとりに建立し白ら梵宇を書し「源空」の二宇を刻んで置かれました上人の滅後弟子等相寄り御芳骨をその塔下に納め奉ったと伝えられています。高野山円光大師廟というはこの五輸塔の事であります。
 蓮生法師承元二年(三〇八)九月十四日念仏を唱え睡るが如く往生されました。その後直家は亡父の遺命により登山當寺の堂宇を改造修築して追孝の法要を営みました。この事時の将軍実朝公の知るところとなり蓮生房の詠まれた「約東の念仏」の歌と「熊谷寺」と書いた扁額を寄進されました。當寺は元智識院持宝院と号していたのをこの因縁に依り熊谷寺と改称し今日に及んでいるのであります。
 弘長四年親鷲聖人の三回忌に当り覚信尼公(上人の息女)聖人の遺命に依って御臨終の名号並に御遺骨及び御母公玉日の前の木像を使者日野家の士下
条専右衛門頼一を遣して當寺に納められ且つ聖人が師の流れを汲んでかね
て手書しおかれた梵字を刻んで石塔を建立されました。
上述の如く當寺は承和四年創立以来ここに一千百有余年高野山の歴史と
その運命を共にしてきたのでありますが明治廿一年三月当山大火あって当
寺もその災に罹り堂舎悉く焼失したのであります。爾来先師の並々ならぬ
努力により再建され遂次坊舎の増築するあり旧に倍する規模を呈するに至
ったのであります。
これ偏へに宗祖大師の御冥護と加ふるに上来御三方の御霊光の賜物と渇
仰の微衷禁ずる能はざるものがあります。翼くは円光見真両大師の芳濁を
慕ひ念仏唱名し往生の素懐を遂げんと願ふ信者は両大師の流れを汲み登山
して弘法大師に龍華値遇の良縁をお結び下さい篤信の善男善女希はくは當
寺に参籠して仏恩報謝せられんことを。

○空海の心の中に咲く花は 弥陀より外に知る人はなし(空海)

○極楽もかくやあらましあら楽し はやまいらばや南無阿弥陀仏(法然)

○にはかなる南無阿弥陀仏の一聲に たのめばすてぬちかいなりけり(親鸞)

○約束の念仏は申すまでにそうろうよ やろうやらじは弥陀のはからい(蓮生)

○晴れやらぬ心のうちのくもりども 南無阿弥陀仏の風にはれけり(円証)

昭和四十八年二月十一日印刷
昭和四十八年二月十五日発行

和歌山県伊都郡高野山熊谷寺現住誌

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