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2006年04月07日

●建久3年(1192) 「対久下直光境地争、頼朝ノモトヲ辞ス」

 建久三年、久下権守と領地境争いをした。鎌倉では訴えの場にて、直実は武道にては勝れていたが、弁済では直光が勝れ、 さらに梶原景時の応援により、利を非にかえられ、直実は大いに怒り、頼朝の面前にて髪を切り、伊豆走湯山に走ってしまった。

「十一月二十五日 甲午・・・(中略)、対決ニ至リテハ、再往知十ノ才ニ足ラズ、 頗ル御不審ヲ胎スニ依リテ、将軍家度々尋ネ問ハシメ給フ事有リ。時ニ直実申シテ云フ、此事、梶原平三景時、直光ヲ引級スルノ間、 兼日道理ノ由ヲ申シ入ルルカ、仍ツテ今直実頻リニ下門ニ預ル者ナリ。御成敗ノ処、直光定メテ眉ヲ開ク可シ。其ノ上ハ理運ノ文書無シ。 左右スル能ハズト称シ、コト未ダ終ヘザルニ、調度文書等ヲ巻キ、御簾ノ中ニ投入レテ起座シ、尚忿怒ニ堪ヘズ。」 (『吾妻鏡』)

 直実にとって、出家することはかねてからの志であったが、その機が無かった。しかし、今回心ならずも生来の短気を爆発させて、 出家することを公然と意志表示したのである。驚いた将軍は、熊谷のごとき剛の者を失うことを惜しみ、 出家を思いとどまらせるべく走湯山の専光房良暹にその旨を命じた。

「京都ノ方ニ赴クカト云々、則チ雑色等ヲ相模伊豆ノ所々並ビニ箱根走湯山等に馳セ遣ハシ、 直実ノ前途ヲ遮リテ、遁世ノ儀ヲ止ム可キノ由、御家人及ビ衆徒等ノ中ニ仰遣ハサルト云々。」(『吾妻鏡』)

 専光房は、直実に頼朝からの上洛出家を思いとどまるべしの旨を伝えたが、出家の決意は固く、断念させることは無理と考え、 直実には純粋に仏道を求めるのみであり、謀反の意志が全くないということを鎌倉に報告した。その後、熊谷領は、 そのままで咎め無しの沙汰が鎌倉より直家のもとへ送られてきた。

「十二月二十九日 丁卯、今日走湯山ノ専光房、歳末ノ巻数ヲ献ス。 ソノ次ヲモツテ申シテ云ワク、直実法師上洛ノ事ハ、ヒトヘニ羊僧ノ諷詞ニツキテ思ヒ止マリヲワンヌ。タダシ左右ナク、 営中ニ還リ参ルベカラズ、シバラク武州ニ隠居スベキノ由、」(『吾妻鏡』)

直実は、走湯山にて妙真尼を訪ねる。妙真尼は法華経持経者であったが、法然上人の話を聞き、 それ以降念仏を称えるようになったと伝えられている。内実は、この妙真尼から浄土の話を聞き、改めて出家の決意を固め京へ上ったのである。

「伊豆走湯山ニ参籠シケルガ、法然上人ノ念仏弘通ノ次第ヲ、 京ヨリ下レル尼公ノ語ロケルヲキキテ、ヤガテ上洛シ・・・」(『九巻伝』)

 直実は敦盛公を討ってからのもやもやした気持ち、一生かけてその菩提を弔うと約束したが、その方法も未だわからないまま、 流鏑馬での的立て役、そしてこの裁判、自らの命をかけて戦ってきたのに、戦いのためとはいえ、多くの人を殺めてきたのに、 なのにこの仕打ちは何だ、こう感じたのであろう。
 ここに直実はついに出家を決意し、法然上人のもとを訪れたのである。