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2006年04月07日

●建久4年(1193) 「法然上人の弟子となる」

 「武蔵国の御家人、熊谷の次郎直實は、平家追討のとき、所々の合戦に忠をいたし、 名をあげしかば、武勇の道ならびなかりき。しかるに宿善のうちにもよをしけるにや、幕下将軍をうらみ申事ありて、心ををこし、出家して、 蓮生と申けるが、聖覚法印の房にたづねゆきて、後生菩提の事をたづね申けるに、さようの事は法然上人に、たづね申ベしと申されければ、 上人の御庵室に参じにけり。」 (『法然上人絵伝(四十八巻伝)』第二十七巻)

 文治元年の項でも触れたが、一説には直実の出家はこの建久4年であるとする説もある。「大原問答」、「高野山参籠」、 「熊谷蓮生譲状」がこの建久4年説とは相反するものである。この3件を現実無偽のものとするならば、こうは考えられないであろうか。直実は、 敦盛を討ち、その無常さを感じて法然上人の門をたたいた。ありがたい念仏の教えを聞き、出家したく思うも、 一族の事を考えると直ぐには無理である。そこで、出家者の真似事(本人は至って真剣である)のようなことをしていたのではないか。その間に、 前記の3件のような出来事があり、この建久4年に、改めて、本当に出家し、念仏の道に進み始めたと考えられる。いづれにせよ、 直実は出家することとなったのである。

 さて、いざ出家といっても直実はどうしたらよいのか分かるはずもなく、以前知人から紹介された聖覚法印(一説では、 聖覚法印の実の父であり法然上人の弟子でもある澄憲法印とも言われている)を訪ねるが、そのときの様子は『蓮生法師一代絵伝』によれば、 聖覚法印を待っている間、蓮生は懐から鎧通しを取り出し、手水鉢にて研ぎだしたのである。 これを見て取り次ぎの者が恐る々るどうされたのかと尋ねた。

「なに事の科ぞ」と人申しければ、
「これへ参るは、後生の事を尋ね申さん為なり、もし腹を切り命を捨てねば、後生は助からぬと承らば、腹をも切らん料(かんがえ)なり。」 とぞ申しける。法印、此の事を聞き給いて、
「サル高名ノ者ナレバ、定メテ在知アルラン」トテ「後生助カル道ハ法然房ニ尋ネ申スベシ」トテ、使ヲソヘテ、上人ニ引導セラレ、」
(『法然上人伝記』)

 聖覚法印は、それならばと法然上人を紹介されたので、直実は法然上人を訪ねることとなったのである。かくして、 初めて法然上人に対面したのである。その様子は以下の通りである。

 「罪の軽重をいはず、ただ念佛だにも申せば往生するなり、別の様なしとの給をききて、さめざめと泣ければ、 けしからずと思たまひてものもの給はず、しばらくありて、なに事に泣給ぞと仰られければ、手足をもきり命をもすててぞ、 後生はたすからむずるとぞうけ給はらむずらんと、存ずるところに、ただ念佛だにも申せば往告するぞと、やすやすと仰をかふり侍れば、 あまりにうれしくて、なかれ侍るよしをぞ申ける。まことに後世を恐たるものと見えければ、無智の罪人の念佛申て往生する事、 本願の正意なりとて、念佛の安心こまかにさづけ給ければ、ふた心なき専修の行者にて、ひさしく上人につかへたてまつりけり。」 ( 『法然上人絵伝(四十八巻伝)』第二十七巻)

 法然上人は、「罪の軽重を問わず、ただ念仏さえ称えれば、極楽に往生することができる」と教えられた。
 それを聞いた直実は、さめざめと泣いてしまったという。不審に思った法然上人が尋ねると、

「自分は手足を切り、命をも捨てて、はじめて往生できると聞いていたが、今、上人から、 ただ念仏さえとなえれば往生することができるということを聞き、あまりのうれしさに泣いてしまった」

と答えたというのである。