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2006年04月07日

●建久5年(1194) 「誕生寺建立」

 蓮生の師法然上人は、13歳のときに叡山に登った。その後、 父母には何一つ孝養の道もとれずに今日まで過ごしてきてしまったことが気がかりであった。上人は、三尺ほどのご自身の木彫像を蓮生に渡され、 父母の供養を頼んだ。
 蓮生は、師の誕生地である美作へと向かった。上人より預かった三尺の御木像を背負い、須磨から姫路、出雲街道を下り稲岡ノ庄栃社にき、 1本の銀杏の木が立っている壁塀に囲まれた居城跡が遙か前方に見えると蓮生は感激号泣し、天地も裂けんばかりに高声念仏を称えた。  ここ誕生寺は、浄土宗特別寺院の1つで、栃社山誕生寺といい、法然上人二十五霊場の第一番となっている。 崇徳上皇の御代の長承二年(1133)四月七日、押領使漆間時国の長子としてお生まれになった法然上人の誕生の地である。

 山門をくぐると眼前には、逆木の公孫樹なるものが生えている。 法然上人十三歳の時にお手植えの銀杏であって、根が逆さまに伸びたという。右手の方には毘沙門堂、阿弥陀堂、左手の方には、 文殊堂、観音堂、そして正面には、御影堂(本堂)がある。御本尊は阿弥陀仏で両脇に観音勢至両菩薩を随え、 右左の陣には善導大師と法然上人の御木像が祀られている。国の重要文化財にも指定されている立派な御影堂である。 さらにその奥には、法然上人お誕生の奇瑞をつたえる両幡の椋、勢至丸(法然上人の幼名) に右目を射られた明石定明が小川で右目を洗ったが、以後片目の魚が出現するようになったという曰く付きの川である片目川がある。 川を渡り右手には、法然上人産湯の井戸などがあり、左手の坂を登ると、法然上人がご幼少のみぎり勉学された那岐山の菩提寺、 母が祈願した岩間観音(棚原町・天台宗総本山)の本山寺などがある。

 両幡の 天下ります 椋の木は
 世々に朽ちせぬ 法の師のあと


 この歌は蓮生が感激して詠まれた歌で、大意は「上人がお生まれになったとき、天の彼方から二流れの白い幡が飛んできて、 庭の椋の木に掛かり、美しく輝いたと伝えられている。この木とともにお念仏のみ教えも、時を越えていつまでも繁り栄えることであろう」。
 自分自身を救い、その後の生き方を示していただいた師法然上人と、 お念仏のみ教えへの一途な思いが込められている歌として浄土宗御詠歌の第一番として今も多くの人々に唱和されています。


 

「恭しく惟れば、當山は畏くも人皇七十五代、崇徳院の御宇、長承二年四月七日、 元祖圓光明照大師法然上人御誕生あらせ給ひし露地にして、大師御両親尊廟の現存せる無比の遺跡なり。
抑も保延七年花散る春の夕べ、あはれ御父時國卿、源内武者定明がために、遣恨の双に発れんとして『汝會稽の恥を思ひ敵人を恨むること勿れ、 是れ偏へに先世の宿業なり』と、いしくも御遺言ありて、途に端座合掌して息絶え給ひしは、此所なり。 後久安三年残んの雪に肌まだ寒き二月十二日の朝御母秦氏君、

  かたみとてはかなきおやのとどめてし
   この別れさへまたいかにせん

とかなしくも御述懐あらせ給ひて、手馴れの御鏡にむかひつ、王くしけ母ひとり子ひとりのふたりが最後の生顔をうつしまして、憂たてや、 さらぬ、別れをかねたる、生別れをなし給ひしも此所なり。年は三五の春霞比叡の御山にのぼりましてより後、いくその年月を経て、 承安五年春三月四十三歳にして始めて專修念佛の浮土宗をひらき給ひし時、今しもし世に父母のおはしまさんには、先づ作州に下向して、 此の御法を傳へ奉るべきものを、『樹静かならんどすれば風やます、子養はんとすれば親いまざす』 といひけん昔の言の葉を今この法然が身の上に見るこそ、さても味氣なの世のさまかなと、なげかせ給ひつつ、これせめてもの、 おもびやひなる追孝の料にもとて躬から勿体なくも、御像を彫ませ給ひ一刀一念彫みては唱へ、唱へては彫みつつ、遽に四十三歳の、 等身の御像を四十八たびまで御開眼ましまして、之れを御身代りに故郷へつかはし、御墓参になぞらへ、 且つは有縁にも結縁せばやと思召しけれども、其御願は唯あらましにて、空しく年月を過ごさせ給ふ、ここ熊谷の次郎丹治直實は建久四年、 大師御年六十一の時入道して御弟子となりしかば、或時彼の故郷の御物語りありければ、願ぐば、 某にその御役を仰せつけさせ給へかしとてやがて御像を負ひ奉り、都を後にしかすがに老の旅路のいそがれて、あゆみは西にむかふまち、 唱へてやまぬ山崎や、空にぞ仰ぐたかつきの、月の光りに照されて、心の内の茨木の、とげとげしさを恥ぢらひつ、早やも浪華の津をすぎて、 甲山さへ見えそめたれば、鎧武者の昔の心もかへる熊谷入道、こし方行末とりとりに、思ひをくだく須磨の波、ゆくての方に鵯越え、 一の谷など見えてけり、あはれ在家のむかしをおもへば、此処にて平家の公達敦盛公を討し身の、今叉出家の身とはなりて、 同じ濱邊をさすらふる、有爲転攣の世相かな、

  昔のよろいにかはる紙子には
   かぜのいるやも通らざりけり

と詠じつつ無明長夜も明石潟、有年高砂と播磨路を、はや杉坂も行き行きて、久米の皿山いや更に、思ひ慕ひて稲岡の、 この里にこそ入りにけれ、さてなん昔の御舘を佛閣に引き直し誕生寺と號したり、今の寺即ちこれなり。 さればこれより諸人の帰依日に盛え月に増し、念佛の聲は四海に満ち、受教の輩は中外に溢れ、二幡の椋の木は彌々茂り、 片目川の流れは増々清くして殿堂甍を並べ、棲閣軒を交はして、法燈長へに輝く。哀れ吉水の流れを掬める輩は、 大師の寳前に脆き御両親の尊廟に額つきて、以て無窮の慈恩に答へ、二世の勝縁を祈り給はんことを、勧めまいらすものなり。(終)

御両親法号
菩提院殿源誉時国西光大居士 父君 行年四十三歳
保延七年三月十九日
解脱院殿空誉秦氏妙海大禅定尼 母君 行年三十七歳
久安三年十一月十二日

参詣路順案内
岡山駅下車中国線津山行列車へ乗り換へ誕生寺駅にて下車此駅より平坦なる道路を西へ五丁ほどにして誕生寺の門前に着す 前以て御通知あらば出迎人並に荷物運搬人を同駅まで派遣す

毎年新暦四月十九日
宗祖御両親追遠二十五菩薩来迎練供養修行並宝物拝観公開
岡山県久米郡稲岡南村
二十五霊場第一番 誕生寺」

 「誕生寺縁起」