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2006年04月07日

●建久6年(1195) 「念仏質入れ」

 東海道の小夜の中山で直実は盗賊にあった。修羅場を幾度となく、かいくぐってきた蓮生にとって、 取り押さえることは雑作のないことであったが、これでは短気がなおらんと、盗賊の望むまま、失って惜しいものとてなく、旅銭、 法衣らすべてを与えてしまった。


 蓮生は路銀に困り、藤枝の福井憲順より借用した。その代わりとして、 端座合掌し声高らかに南無阿弥陀仏と念仏を称えた。すると、蓮生の口よりまばゆい金色の阿弥陀如来の化仏が現れ、 憲順の口の中に移った。南無阿弥陀仏を十遍称えると、十体の阿弥陀様が憲順の体中におさまったのである。
 憲順は夫婦ともども、これは有り難き奇瑞なりと、蓮生に銭を、さらに法衣、必要なものを与えた。その夜、蓮生は憲順宅に引き留められ、 あたたかくもてなされ、阿弥陀如来の功徳を説き、その志に報いた。

 その後、建久七年三月、蓮生は帰洛の途上、路銀の返却のため憲順の屋敷を訪ねた。憲順の願いにより、 十遍のうちの一遍を憲順の体中にとどめ置き、さらにしばらく滞在し、他力本願の教えを説いた。
 憲順は夫婦ともども蓮生の教化により念仏に帰依し、法名を蓮順と改め、福井家をそのまま念仏の寺とし、蓮生を開山となし、 熊谷山蓮生寺となした。
 
「阿弥陀仏と称ふる人は彼国に 心ぞいたる墨染めの袖」蓮生

「受け伝ふ法(
のり)の流れも汲みて知る このうれしさをいつか報ぜん」蓮順

 その後、熊谷山蓮生寺は、蓮因の代に親鸞上人が立ち寄り、浄土真宗に帰し東本願寺の末寺となり、 現在に至っている。

 寺宝には、「蓮生法師筆六字名号」、「太刀(四尺、直家銘)」、「蓮生法師木座像(中山備中守信敬刻)」などが今も伝えられている。

 

 

「法寶物略目
一、熊谷蓮生房寿像 自作
一、横取替之名號
一、兜中守佛
一、親鸞聖人雛形木像 自作
一、大蛇済度名號石 鸞師筆
一、来迎三尊画 恵心筆
一、名体不二如来 恵心筆
一、母衣絹名號 蓮生房筆
一、直實戦場依用大剣 直家納
一、黒谷秘伝鈔 鸞師筆
一、聖徳太子木像 鎌倉運慶作
一、正信念佛偈(双幅) 教如上人作
巳上外略之

抑当院は建久六年秋八月熊谷直實入道蓮生法師鎌倉下向の砌り立寄り給ひ十念奇瑞の霊場也。法師熊谷次郎直實ご名謁り給ひし昔、 源平の間た軍功無双の英雄にして総大将頼朝公より感状二十余通を賜り武州大里、埼玉、両軍を領し関八州志の党の旗頭なりしが、 宿善開発にや頻りに無常遷変を感じ法然聖人の門に入り坂東阿弥陀佛法力房蓮生法師と給はりけり、 然るに関東に老母の煩りけるを聞召し不背西方の金文を守り逆馬に鞭ち「浄土にも剛の者とや沙汰すらん西に向かひて後ろ見せねば」 と口號つつ小夜の中山にかからせけるに山賊踊り出つ、其時少しも騒がず喩へ汝等数千人立向ふとも何ぞ恐れんや、 今は法師の身なればとて望みなる旅銭与へ玉ひ、ゆくゆく当藤枝驛に来り旅糧巳に尽きければ福井左右衛門之尉憲順を訪ひ、 鎌倉下向の旅糧を乞ふに見知らざる御旅僧質物なくば応ぜじと答へければ然らば大切なる十念を質にせんとて憲順に向ひ合掌称念じければ、 化佛髣髴として主の口に入る、 驚て一貫文を貸し参らせける爰に旅糧を得て鎌倉に趣く翌七年春三月帰洛の刻み来臨ありて恩借を返し十念を戻すべしと主云く我等凡俗奇瑞顕はれずば云何すべきやと申せば唯称へて戻さるべ志と、 依て覚束なくも合掌して十念相続しけるに奇瑞元の如し、妻愕て第十念に及び主の口を押へて申しやう斯る奇瑞空しく戻し参らすこと本意なし、 願わくは一遍乃称名、一体の化佛我等等夫妻に附属し給へご法師之を諾す、 爰に夫妻に対志懇ろに法義化導なし玉ひけれは立所に随喜渇仰志て師弟の芳契を結び、法名蓮順、蓮心と賜志ゆへ忽ち世業を廃し、 家財を抛ち仏閣となす即ち当院是也。師留錫中に「阿弥陀仏と称ふる人は彼の国に心そ至る墨染めの袖」ご詠じしかは蓮順取りあへず 「受伝ふ法の流れも汲て知るこの嬉しさをいつか報せん」と返志ぬ、師帰洛に及び別離を惜みければ形身と志て自作寿像及名號を残し置けり其後、 蓮因貞永二年鸞聖人帰洛の途を屈請して真門に帰す。鸞師六字十字尊號黒谷秘伝鈔を授く、其后生岸蓮如上人より鸞師雛形の寿像六字名號を拝受、 其後祐念東本願寺に属す教如上人より正信偈自筆を拝受す、是如法燈聯続の霊場也。」

「東海道駿河国 志太郡藤枝驛熊谷山蓮生寺縁起」

 

 

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『東海道駿河国 志太郡藤枝驛熊谷山蓮生寺縁起』

法寶物略目
一、熊谷蓮生房寿像 自作
一、横取替之名號
一、兜中守佛
一、親鸞聖人雛形木像 自作
一、大蛇済度名號石 鸞師筆
一、来迎三尊画 恵心筆
一、名体不二如来 恵心筆
一、母衣絹名號 蓮生房筆
一、直實戦場依用大剣 直家納
一、黒谷秘伝鈔 鸞師筆
一、聖徳太子木像 鎌倉運慶作
一、正信念佛偈(双幅) 教如上人作
巳上外略之

抑当院は建久六年秋八月熊谷直實入道蓮生法師鎌倉下向の砌り立寄り給ひ十念奇瑞の霊場也。法師熊谷次郎直實ご名謁り給ひし昔、源平の間た軍功無双の英雄にして総大将頼朝公より感状二十余通を賜り武州大里、埼玉、両軍を領し関八州志の党の旗頭なりしが、宿善開発にや頻りに無常遷変を感じ法然聖人の門に入り坂東阿弥陀佛法力房蓮生法師と給はりけり、然るに関東に老母の煩りけるを聞召し不背西方の金文を守り逆馬に鞭ち「浄土にも剛の者とや沙汰すらん西に向かひて後ろ見せねば」と口號つつ小夜の中山にかからせけるに山賊踊り出つ、其時少しも騒がず喩へ汝等数千人立向ふとも何ぞ恐れんや、今は法師の身なればとて望みなる旅銭与へ玉ひ、ゆくゆく当藤枝驛に来り旅糧巳に尽きければ福井左右衛門之尉憲順を訪ひ、鎌倉下向の旅糧を乞ふに見知らざる御旅僧質物なくば応ぜじと答へければ然らば大切なる十念を質にせんとて憲順に向ひ合掌称念じければ、化佛髣髴として主の口に入る、驚て一貫文を貸し参らせける爰に旅糧を得て鎌倉に趣く翌七年春三月帰洛の刻み来臨ありて恩借を返し十念を戻すべしと主云く我等凡俗奇瑞顕はれずば云何すべきやと申せば唯称へて戻さるべ志と、依て覚束なくも合掌して十念相続しけるに奇瑞元の如し、妻愕て第十念に及び主の口を押へて申しやう斯る奇瑞空しく戻し参らすこと本意なし、願わくは一遍乃称名、一体の化佛我等等夫妻に附属し給へご法師之を諾す、爰に夫妻に対志懇ろに法義化導なし玉ひけれは立所に随喜渇仰志て師弟の芳契を結び、法名蓮順、蓮心と賜志ゆへ忽ち世業を廃し、家財を抛ち仏閣となす即ち当院是也。師留錫中に「阿弥陀仏と称ふる人は彼の国に心そ至る墨染めの袖」ご詠じしかは蓮順取りあへず「受伝ふ法の流れも汲て知るこの嬉しさをいつか報せん」と返志ぬ、師帰洛に及び別離を惜みければ形身と志て自作寿像及名號を残し置けり其後、蓮因貞永二年鸞聖人帰洛の途を屈請して真門に帰す。鸞師六字十字尊號黒谷秘伝鈔を授く、其后生岸蓮如上人より鸞師雛形の寿像六字名號を拝受、其後祐念東本願寺に属す教如上人より正信偈自筆を拝受す、是如法燈聯続の霊場也。

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