« 建仁2年(1202) 「善信房への消息」 | メイン | 建久8年(1197) 「法然上人の共で、九条兼実邸を訪れる」 »

2006年04月07日

●建久9年(1198) 「京都粟生野ニ光明寺(念仏三昧院)を開創」

 蓮生は、弥陀の本願を信じ、称名の一念に疑心をいだかぬ決定心で、日に5萬遍、6萬遍の念仏を始めた。しかし、 ここ吉水は朝廷や院の出入りが多く、その場所故、武士や旧友の訪れもあり、また鎌倉や熊谷からの音信も伝えられた。 一心に専念している称名念仏も、心乱れ、とどまりがちなため、どこか静かな地にて念仏したいと上人に申し出た。上人は、 西山広谷の粟生野の地を勧められた。

「人ノ心ハ境ヲ遂テ移ル、境閑ナレハ、心朗ナリ。此吉水ノ坊舎ハ、九重ノ内ニ程チカクテ、車馬ノ轟々耳ニミチテカシマシク、 六波羅境ヲ接テ、武士ノ出入、眼ニサヘキリテ六ヶ敷、旧友折ニフレテ音信来リ、古郷ノ伝モシケレバ、一心ヲ乱ル端トナリ、 念々相続ノ行業モ間断シヌヘク覚侍リ、京洛外ニ幽閑ノ地ヲ求メ、跡ヲ雲霞ニ晦シ、心静ニ念仏セハヤト思立、上人ニ此由申入ケレバ、 上人ノタマハク・・・・」(『光明寺縁起』上巻)

(*これよりは西山浄土宗総本山光明寺のHPより引用。)

 ここ粟生野の地は、かつて上人が承安5年に一心専念の身になって、自他共に救われる一道を確立し、 人々に広めんと28年間いた叡山黒谷を下り、始めて止住した地である。蓮生は、 江州堅田の浮御堂にあった恵心僧都作と伝えられる6尺の阿弥陀如来像を安置し、法然上人の御来駕を願い、上人を開山初代、 蓮生は第2代となし、入佛供養をお願いし、初の念仏道場となし、念仏三昧院と名付けた。 西山浄土宗の総本山光明寺は、 長岡京市西山のふもと、粟生広谷にあります。宗祖円光大師法然上人が御歳43歳の時、 日本で最初に念仏の産声を上げられた立教開宗の地であります。  
  
  法然上人が24歳の時、奈良へ学匠となるべき師を求めて叡山を降りられたとき、この粟生野の里、 当時村役の高橋茂右衛門宅に一夜の宿をお借りになりました。その時、茂右衛門夫婦は、上人の真剣な求法のお気持ちと、 広く大衆が救われる道を求めての旅である事を聞き、「まことの教えを見いだされましたならば、 先ず最初に私共にその尊いみ教えをお説き下さいませ」とお願いいたしました。

 時は流れ承安五年(1175年)3月、ついに浄土宗を開かれた上人は20年間のお約束の通り、 この粟生野の地で初めて念仏の法門を説かれたのです。  

  文治元年(1185年)に、かの源平の戦いで有名な熊谷蓮生(れんせい)法師(熊谷次郎直実)が戦いの明け暮れから、積もる罪業を償い極楽往生の道を求めて法然上人を訪ねました。
「どんなに罪は深くとも、念仏さえ一心に申せば必ず救われる」との、あまりにも有り難いみ教えに歓喜し、直ちにお弟子となり剃髪しました。
 法力房蓮生と名付けられ、数年のご修行の後、喧噪の吉水を離れ、静かに念仏を称えられる地を求めて、建久九年(1198年)に、 上人ゆかりの地、粟生広谷に寺を建て、法然上人を勧請して入佛落慶法要を営み、開山第一世と仰ぎ、自らは二世となり、上人からは 「念仏三昧院」の寺号を頂きました。これが光明寺の発祥です。 

 第三世幸阿上人の時、建暦二年(1212年)正月25日、法然上人がお亡くなりになりました。晩年は奈良、 叡山の古い教団から迫害を受け、滅後の嘉禄三年(1227年)には叡山の衆徒が大谷の墳墓を暴いてご遺骸を鴨川に流そうと企てたので、 上人の遺弟達は秘かにご遺骸の石棺を嵯峨に移し、更に太秦の西光寺に移しました。
翌安貞二年正月20日の夜、上人の棺より数条の光明が放たれ、南西の粟生野を照らすと言う奇瑞が現れましたので、 同月25日ご遺骸をこの粟生野の地で荼毘に付し寺の裏山にご芳骨を納め御廟堂を建てました。 この時の奇瑞にちなんでこれ以後念仏三昧院は光明寺と称される事になりました。