●元久元年(1204)5月 「上品上生の発願」
再び京に上った蓮生は、元久元年五月に鳥羽一念寺上品上生の阿弥陀如来前にて、「我、上品上生を願って極楽に往生す。 その他の八品の往生は我が願にあらず」と堅き大願を起こした。
その理由は、自分は下品下生でもよいが、この世で因縁を結びし人々を一人残さず極楽往生させ、なお無縁の者も共に印接せんために、 上品上生の願を堅めたのである。
「蓮生念佛往生の信心決定してのちは、ひとへに上品上生の往生をのぞみ、
われもし上品上生の往生を遂まじくば、下八品にはむかへられまいらせじといふ。かたき願をおこして、
発願の旨趣をのべ偈をむすびて、みづからこれをかきつく。かの状云、元久元年五月十三日、鳥羽なる所にて、
上品上生の来迎の阿彌陀ほとけの御まへにて、蓮生願をおこして申さく、極楽にうまれたらんには、身の楽の程は、
下品下生なりとも限なし、然而天台の御釈に、下之八品不可來生と仰られたり。おなじくは一切の有縁の衆生、
一人ものこさず來迎せん、無縁の衆生までも、おもひをかけてとふらはむがために、蓮生上品上生にうまれん、さらぬ程ならば、
下八品にはうまるまじ。かく願を抽こして後に、又云、恵心の僧都すら、下品の上生をねがひ給たり、何況末代の衆生、
上品上生する者は一人もあらじと、ひじりの御房の仰ごとあるをききながら、
かかる願をおこしはてていはく末代に上品上生する者あるまじきに、しかもよろづ不當なる蓮生、いかで上品上生にはうまるべきぞ、
さなくば下八品にはむまれじとぐわんじたればとて、あみだほとけもし迎給はずば、第一に彌陀の本願やぶれ給なんず、
次に彌陀の慈悲かけ給なんず、次に彌陀の願成就の文やぶれ給なんず、次に釈迦の観無量壽経の、十悪の一念往生、五逆の十念往生、
又阿彌陀経の、もしは一日もしは七日の念佛往生、恒沙の諸佛の証誠、又善導和荷の下至十聲一聲等定得往生の釈、又なによりも、
観経の上品上生の三心具足の往生、それを善導の釈の具足三心必得往生也、若少一心即不得生、又專修のものは、千は千ながらの釈、
ことごとくこれら、佛の願といひ佛の言といひ、善導の釈といひ、もしれんせいを迎給はずば、
みなやぶれておのおの妄語のつみ得たまなんず。いかでか大聖の全言むなしかるべきや。又光明遍照十方世界の文、
又此界一人念佛名の文この金言どもむなしからじ、いよいよこれらの文もて、疑なき也とおもふ。
一切の有縁の輩郎たちかへりてむかへんとて、願をおこして上品上生ならずば、むかへられまいらせじといふ、
かたき願をおこしたるか、よくひが事ならんちやう、五逆の者ばかりはあらじ、しかればいかなりとも迎給ばぬ事あらじ、
これを疑はぬ心は三心具足したり。上品上生に生るべき決定心発したり、その疑煩悩断じたり。そのさとりをひらいたり。善導又天台、
この事をみるものば上品上生にむまる、又衆生の苦をぬく事を得又無生忍をさとる、
又極樂に所願したがひてむまるとの給へり
下八品の往生 われすててしかもねがはず
かの國士にいたりをはて すなはちかへり來事あたはざればなり
かさねてこふ我願において 或は信じ或は信ぜざらんもの
ねがはくは信と謗とを因として みなまさに浄土にむまるベし
于時元久元年五月十三日午時に、偈の文をむすびて、蓮生いま願をおこす。
熊谷の入道としは六十七なり、京の鳥羽にて上品上生の迎への曼陀羅の御まへにてこれをかく」
(『法然上人絵伝(四十八巻伝)』第二十七巻)
ある夜、蓮生は池の中より只一本の金色の蓮が、するすると伸び、その茎は長く、天高く伸びる夢を見たという。この夢は、板東の人、
京の人たちが見た夢と全く同じで、蓮生のこの願いは、誠なりと人々の耳目を驚かした。
蓮生の籠もったところは、現在の浄土宗一念寺であり、一説では蓮生法師を開山としている。
法然上人が配流されたとき鳥羽南門から乗船された地の寺で、蓮生に与えた名残の名号を伝えている法然上人の遺跡である。
本尊は東大寺念仏堂から迎えられた春日作の丈六、上品上生の阿弥陀仏坐像(旧国宝)である。