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2006年04月07日

●元久2年(1205)春 「熊谷下向」

 元久二年春、蓮生は熊谷への想いを断ちがたく、上人の門弟幸阿弥陀仏(光明寺三世)に後時事を託し、上人に別れを告げた。
 近江草津から中仙道に入り、途中美濃国横蔵寺にたち寄り、念仏を修した。この横蔵寺は、延暦20年伝教大師により、 比叡山根本中堂の本尊と同材の天竺伝来赤栴檀を用いて彫られた薬師如来を本尊とする。蓮生法師は、中興の祖とされており、 四十五世唯蔵の代に蓮生自刻の阿弥陀如来像がある。その銘によると、その昔この峰に釈迦堂があったが、ひどく傷んでいた。そこで蓮生は、 自ら阿弥陀如来像を刻み、念仏会の本尊として社を結び、この像を持仏堂に安置した。
 降って元久元年、五十一世円道の代に、大念仏無差会が復活した。この折、蓮生はここを訪れ、阿弥陀像(「熊谷弥陀」と称す)を自刻し、 横蔵寺常行堂の本尊とした。以来、春秋には大念仏会が開かれるようになったそうである。
 山門東塔吉祥院実光によると、蓮生の阿弥陀如来に記した願文(「上品上生往生の立願文」)が残されている。
 蓮生関係の寺宝としては、弥陀三尊来迎図(絹地彩色、伝恵心僧都、直実寄進)、直実着用の乗鞍(黒塗青貝磨)、鎧、轡、障泥(表青色、 厚木綿裏皮)、屓(縦二尺六五、横二尺〇五)、蓮生筆墨書一軸が伝えられている。

「抑も當爾界山横藏寺は畏れ多くも桓武天皇の御勅顧に因り、 延暦二十年比叡山延暦寺の開山傳敷大師が此地に住める三輪次郎太夫藤原助基翁(現今當村に祀れる三輪明紳は即ち翁を祀れるもの也) と相計り當山に七堂伽藍を建立せしに創まる、其御本韓は赤栴檀の奇木を以て成れり、初め傳敷大師は比叡山に於て、 藥師如來の像二体を自ら調刻し給ひて、一体を延暦寺根本中堂の御本尊に勧請し」残る一体を當寺の御本尊として安置し奉れり、 胎内佛は閻浮檀金の藥師の小像にして、開山の租、傳敷大師が延暦二十三甲年四月、詔を奉じて入唐せられし砌、 台州國清寺の道遽和尚より授與せられし尊像にして、翌二十四年六月、大師御帰朝の際彼の地にて授り給ひし如來の尊像と共に携へ帰りて、 其由天皇にも奏聞せられしもの也其後桓武天皇は傳教大師に仰せて、衆生教化のため如來を譲持して國々を巡教なさしめ給ひし際、 同年十一月十入日大師は偶々當國不破郡赤坂に來給ひ山上より干峯万岳を望見したまふに、 不思議なるかな北の方に當る嶺に奇なる一道の光り輝くを見て、必す何等かの瑞祥ならんと直ちに慕ふて其処に到り見給びしに、 先の光りは勿然化して神の御姿を現し大師に告げて曰く「吾れは白山権現にて汝を加護すること茲に久し、 護持の佛像は此地に留めて永く衆生濟度の正因となすべしと」の御神意に、 大師は深く霊験の著しきに感激し給ひつ直ちに御尊像を本尊の腹中に納めたまへり、 然るに此地に住する地主三輪次郎太夫助基翁偶々或夜の夢に当山十二神将及び胎蔵、 金剛両界の曼荼羅を観拝してより山号を両界山と名付け大師と共に専ら霊場の為めに力を尽せり、又大師登山して神勅を受けたまふ時、 如来を納めし笈不思議にも岩上にて俄然震動し、横になられしまま動きたまわざるにぞ、さては是れ有縁の霊地なる瑞像なりとて、 其時より寺号を横蔵と称せり、而して往昔の伽藍は頗る宏大にして輪奐具足し三十八ヶ所の坊宇ありて千石千貫の正税を賜り、 且つ末寺三百余坊有り、比叡山を模擬して麓に日吉山王の神社を勧請し、寺運大に振興して、霊境の名四隣に高かりき、 後ち天暦元年七月二十日村上天皇の勅に依り会式を挙げ、貴賤老若群集して結縁をなす
(今に至るも毎年奮七月二十日を會式縁日として執行し参詣者多し)後ち花風天皇の御宇賢くも台門弘通殿の御勅額を賜はれり、 然るに元亀年中本山なる比叡山延暦寺は時の兵焚に罹りて御本尊を失ひたれば天正十三年再興に際し、 當寺の御本尊を以て根根中堂の御本尊に転座せり、依て天正十七年後陽成天皇は勅使使一條大納言をして、 城州の御菩薩より大師一刀三礼の藥師如來を移し奉り、以て永く當寺の御本尊とせしめ給ひしものにして、其御勅状は今も傳へて當寺に存在す、 叉明和六年には日光の宮より傳敷大師開基の勝地、台門弘通の古刹なりとの御令旨ありたり然るに星移り物変り、 天文年中將軍足利義晴公の時代より織田信長公に至る間に於て、瘻々戦乱の渦を受けて、 寺宇三十八ケ所の住侶及び末寺三百余坊も難を他所に避けて離散し、且つ或は禅宗或は真言宗に転派するもの多く、旧寺領も数ヶ度洛革し、 霊場衰廃の嘆ありしが、慶長十五年に至りて徳川家康公より境内山林及び所在の山麓並に阪本一ヶ村の高を朱印ごして賜る (當村は現今横藏村と称するも昔は阪本村と称せり)寛文年中に至り旧堂宇を縮少して當境内に移し、再建して稍々旧観を保つを得たり、 斯くの如く當時は傳敷大師を以て開基とし爾來春風雨茲に一千百余年、其間當住實照に至るまで百有九世、一系連綿として法脈相承継し、 國家安寧の所念一日も解怠なく、眞俗二諦の相績しづづあるは、之れ偏に大師の御盛徳と申すべけれ

横藏寺百九世 檜正實照」

「横藏寺由緒」


 更に蓮生は、木曽路宮越を過ぎ、塩尻から北国街道に入り、信濃善光寺に立ち寄った。ここ善光寺には、源信・重源・明遍・ 証空ら多くの念仏業者が数多く訪れ、百万遍念仏、不断念仏を修している。「立派な殿堂より念仏の声する所こそ、我が棲家なり」 といって善光寺に落ち着いたという善光寺阿弥陀如来本尊前にて、蓮生は有縁・無縁の人々のため参籠し、念仏を勧めたのである。
 冬の粧いもすっかり脱げ捨て明るい日々が続き、梅・桃・杏の木々が一斉に蕾をゆるませ始めた頃、蓮生は熊谷へ向け善光寺を後にした。