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2006年04月06日

●「蓮生山熊谷寺開創略縁起」


 抑当山開創之濫觴を尋るに人皇五十代桓武天皇の皇子一品式部卿葛原親王の王子上総介高望王の後胤平盛方といふ者、故ありて伊豆国に下る。 [一書に勅勘を蒙と云後剃髪してその住居によって阿多見禅師聖範と改名す]子直貞母の由緒ありて武州七党の内小沢大夫か許にゆき年月を得、 成長して次郎大夫直貞 と名乗り成木大夫か聟と成りぬ、[久下権守直俊と云 是は直光の父丹治姓にて七党の内なり] 其頃大里郡に猛き熊ありて年来諸民をなやまし、殊に永治年中、禍をなせしかば私市党 [其頃武州には勇剛の者数多ありといへとも 小身ゆへ一手切の働不自由故十騎二十騎つゝ党を結び戦ふ者七組有是を武蔵七党と云 私市党も其内也 源平盛衰記に私の党と有は誤なるべし] の武士共領地1165の事故 他所より打浦れんは面目なしと数日狩暮すといへ共 狩得されば詮方なく高札を建、 当所の熊を退治せは永々我党の旗頭となし所園宛行もの也と、其頃直貞十六歳此事を聞、我幼して此地に到るいへ共今に所領なし、 是天の与る所ならむと 武具をかため得物を持て彼処に至り、なんなく熊を打取ければ約束の所領を得、居宅をかまへ [是より此所を熊谷と名く此時代知行所の事は所園一ヶ所二ヶ所と有て高不分明也前来の縁起1170に三百町と有三百町にては八万石余りになりぬ如此ならば党の内に入へからす居城も今の如くにはなかるべし] 其内に彼の熊を祭り熊野権現を勧請し永く私市党の旗頭と成始めて熊谷と名乗る。

 其子二人あり嫡子太郎直正十八にて病死す [後に太郎大明神と祭る]次男は則ち直実也 [一説に直貞子次郎太俊則と云其子直正直実両人なりと此説不審也熊谷実記東鑑源平盛衰記 大系図等の諸書に無之] 性剛直にして弓馬の達者なりしかは 若年より都に登り[其頃東国は源家の所領なれは召に応て軍役を勤] 処々の戦場に勇威を振ひ一騎当千の高名を揚る、中にも平治の一乱には鎌倉源太義平御曹司の [左馬頭義朝の嫡子右大将頼朝卿の舎兄也十三歳の時叔父帯刀先生義賢を討依之悪源太と云] 手に随ひ待賢門十六騎の随一といわれ治承三年秋八月前右兵衛佐頼朝石橋山に旗上給ひしに相模国住人大庭三郎景親三千騎を卒して馳向ひ功落しぬ、 此時熊谷次郎直実も大庭か催促に随ひ佐殿の御陣に弓を引しが、佐殿土肥椙山の御難を免れ安房上総に至り、 三浦の人に会集し麻呂安西の面面随従し、武州豊島原に御陣をすへ給ふに 千葉介常胤、 上総介弘常の両勢加り御勢強大になり関左八州尽く御手属してれば、此時熊谷も後陣に参り、 木曾殿征伐の時は義経朝臣に随従し宇治の手に向ひ一子小次郎直家と共に橋桁を渡り功名を顕し其余所々の戦場におゐて勲功の度毎御感状二十一度迄給り、 寿永三年甲辰二月七日摂州一ノ谷にて熊谷父子平山季重と先陣をなし、須磨内裡落去の節、従三位参議経盛卿の末子無官太夫敦盛を討奉り、 此時蔦に鳩の幕を給りける。然るに直実は我子小次郎直家の事を重ひ、[後次郎兵衛尉直家と号し、 奥州御陣の戦功によって二百四拾五町の所領を給りぬ今の七万石に当れり]経盛卿父母の悲歎を察し忽ち世間の無情を悟り、 且は其菩提を弔ひなんと思ける、然る処、建久三年久下権守直光と領地境の争論によって鎌倉殿へ出訴に及し処、 直実武道におゐては出群の英雄といへ共、直光の弁才利口、且は梶原景時の我執によつて利を非に落せしかは、 直実大に怒りけるに宿善の催所にや 将軍の御前におゐて忽ち髻をきりて伊豆国走湯山に入り 翌年都に登り元祖大師の御庵室に参り、 浄土宗の安心起行の御教化を蒙りしかば二心なき御弟子となり、大原にて山門寺門其外処々の碩学三百余人と聖浄二門の問答の時は、 衣の下に腹巻を着し斧を帯して上人を供奉せしかは、上人のたまふよう蓮生の帯せしは、何そと、御尋の時 斧の由、 御答申ければ僧形には不似合いの物なり捨よと被仰、斧の代りに利剣名号を授けんとて 有あふ木の枝を折て筆を染給りける。

 因て斧替の名号とて今に当山の宝物となれり。月輪殿の [九条関白兼実公御別館は都の西嵯峨の辺愛宕山小倉山の麓月輪の里に有故に月輪殿と云] 御前に召れ上人御往生之後は美作国久米の南条稲岡は上人の御誕生の地ゆえ誕生寺を建立し[御父時国御母秦氏妙海住給し御屋舗跡なり] 諸国に寺院をひらきて報恩にすゝめ、往生の思ひ決定せしかは元久元年五月十三日午時鳥羽の [兼て開基せし一念寺に恵心僧都の筆にて上品上生の来迎曼陀羅を安置し本尊とあふく]一念寺本尊前にて生年六十七歳にて堅固の大願を発し、 我若極楽の上品上生を願ふて必らづ往生せむ、若外の八品に仏迎接し給ふ共 願にあらづ、其故は自身の楽は下品下生なり共 足ぬべし、 然れ共穢土に帰り来りて因縁を結びし一切の衆生を一人も残らづ迎に来り、猶無縁の者迄も引接せんために上品往生を願ふ也、 今此願を聞て或は信じ或は謗らん者をも正因として共に浄土え往生せしめんと云々。

 此堅願を発せし後瑞夢を感ず[此本尊より直に光明遍照の文を授りし事あり]かくて元久二年 [都に住せし時は新黒谷の山中に住居を定め 熊谷堂を初め諸所に寺を開基ありて上人を敬ふなり] 故郷に帰りなんと上人へ願けれは上人も別離を悲み給しかと、東国念仏の弘通を悦ひ、 念頃に御教訓ましゝ自迎接の曼陀羅並に御直作の御影えを給りければ 是を笈に入、 武州へ下りけるに不背西方の行者なれば仮初にも西に後を見せざりける、故、馬にも逆に乗りて口すさむ 『浄土にも剛の者とや沙汰すらむ西にむかひて後見せねば』[此外数十首の歌有こゝに略す]されは上人より坂東の阿弥陀仏と徳号を下されける、 斯て熊谷に下着し息直家が居城の大手先に草菴を結び [宇都宮弥三郎頼綱も蓮生入道の勧によりて発心し同名を願ければ房号をかへ実信房蓮生と賜ふ此蓮も寺院数多開基す]諸人に念仏を弘め [鎌倉殿の御所に参り称名をすゝめけれは和田義盛の息四郎義直五郎義信三浦平六兵衛尉義村結城七郎朝光長沼五郎政宗を初諸士帰依し念仏おこたらす] 自身は日課(念仏)怠りなく末世の形見と鏡にむかひ自像を彫み三年に成就せしかは是を滅後化益の容と定む。建永元年の秋、 当国村岡の市に札を立、明年九月四日午の時往生すべき仏勅を蒙りぬ、不審に思わん者は来り見るべしと、仭翌年[改元ありて承元元年] 八月のすゑ、いさゝかなやむ事有けるが、九月朔日虚空に音楽聞身心悩なく 四日に至りしかば伝聞ける老若男女群集する事 幾千万人と云、 数をしらず、蓮生沐浴し袈裟を着し上人より給りたる来迎の画像をかけ端座合掌し念仏の声諸共に息絶ぬ、 その時口より光明を放ち紫雲軒にたなびき音楽空に聞え、四方に異香薫しぬ、 同六日棺に入るゝ時復亦異香音楽の奇瑞有て紫雲西より来て草庵の上に止る事一時余りにて西を指してきえぬ。

 是上品上生大往生の奇瑞疑ふべからず熊谷氏は直家の次男次郎左衛門尉直時の代安芸国の守護職と成其流は今長州の家長にて数千石領し又三河遠江にうつりし子孫は三河国高力郷に居し高力氏と改御旗本にも数家と分れ又本苗成る者其外熊谷の子孫繁昌成事蓮生の武功念仏の余徳なるべし

其時の草庵数百年 猶法灯伝り、発心修行の者、念仏道場とせしを天正年中に及び、智誉幡随意白道上人中興し熊谷寺と名付けられしかば。
 東照宮神君様兼て開山の真俗に勇功有事を感賞し給ひ、入御の上御先祖大光院殿 [鎮守府将軍義家次男式部少輔義国の嫡子新田大炊介義重君贈鎮守府将軍]の御霊牌を御安置被仰付、御朱印を賜り、 其砌境内え小富士見亭と号被為建筑波富士御遊覧の御坐所也[神君様両度入御台徳院様両度入御]開山の法徳いやましに顕著、 六百数十年の今に到り寺門栄盛し 浄教一方の弘通所と成ける事、徳弧ならず必隣あるのいはれなるべし、されば参詣の輩現世安隠、 後生浄土はいふもさら也、福寿増長、子孫繁栄、諸願成就せん事開山大加備力の所致更に疑べからずと云爾

  
*「蓮生山熊谷寺開創略縁起」 江戸末期 (現存するものは一八六〇年頃と推定)

 著者は不明、江戸末期のものと思われる。建永二年蓮生往生より六百数十年とあり、 二十二代熊谷寺住職善誉恢隆上人の時になる。安政元年(一八五八)には熊谷寺本堂が焼失し、 のち本堂再建の気運も興り恢隆上人の再建基金勧募のため東北地方にまで足跡を残している。
 また「忍名所図絵」、「新編武蔵国風土記稿」所載の寺宝、現有の寺宝により、この頃と推定される。