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   <title>熊谷寺案内</title>
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   <title>平成１８年は蓮生法師８００年遠忌です</title>
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   <published>2006-04-08T13:51:28Z</published>
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   <summary> ＊詳細は後日、ご案内させていただきます。</summary>
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      <![CDATA[<p align="center"><img alt=""
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<p align="center"><font size="2"><strong>＊詳細は後日、ご案内させていただきます。
</strong></font></p>]]>
      
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   <title>保延４年（1138）　「直実生誕、幼名弓矢丸」</title>
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   <published>2006-04-07T02:21:03Z</published>
   <updated>2007-04-26T13:46:47Z</updated>
   
   <summary>　今から約八百六十年前、平家一族の平盛方が天皇の怒りに触れて罰を受けた。その子直定と母は都を逃れ、縁をたよりに武蔵国の小沢大夫のもとに身を寄せていた。 　当時の関東平野は未開の原野が広がり、洪水になると荒川が北関東の平野を自由に気ままに流れた。直定が成長し、十六歳のとき、武蔵国大里郡に猛熊が出没し、...</summary>
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      <![CDATA[<p>　今から約八百六十年前、平家一族の平盛方が天皇の怒りに触れて罰を受けた。その子直定と母は都を逃れ、
縁をたよりに武蔵国の小沢大夫のもとに身を寄せていた。</p>
<p>　当時の関東平野は未開の原野が広がり、洪水になると荒川が北関東の平野を自由に気ままに流れた。直定が成長し、十六歳のとき、
武蔵国大里郡に猛熊が出没し、近隣の人々を悩ましていた。私市党の武士達は領内のこととて、
これを討ち取ろうと数度にわたり狩りをしていたが、巨大な猛熊のため討ち取ることができず、やむなく「熊を退治したものには、
私の党の旗頭となし、所領を与える」と高札を立てた。直定はこれを見て、「この地に来て、今所領する土地がない、良い機会である」
と武具で身をかため、熊のいる谷に出かけ、一矢で難なく討ち取り、約束の如く三百町歩の領地を得て、私市氏に属し、
ここに居宅を構えたと伝えられている。</p>
<p>　直実は1138年(保延４)、直定の３男として武州熊谷郷（現在の埼玉県熊谷市）に生まれる。
現在の熊谷寺が建っているところに熊谷家の館があったと伝えられている。<br />
　幼いときのお名前は、弓矢丸。熊谷次郎直実、次郎というとおり次男であり、長男太郎直正（十八歳で病死）は体が弱く、
若くして亡くなってしう。またもう一人の兄は養子である。父直定も早くに(18歳で)亡くなり、
直実２歳のときに若くして熊谷家の家督を継ぐこととなる。幼少より弓矢の達人であり、性格は剛直であった。だが、いかんせん子供というか、
赤ん坊のようなものですので、叔父にあたる久下直光に世話になった。この久下直光との間に後々、
直実が出家する一因となる出来事が起こるのである。<br /></p>
<p>&nbsp;</p>]]>
      
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   <title>保元元年（1156）　「保元の乱、義朝に従う」</title>
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   <published>2006-04-07T02:19:05Z</published>
   <updated>2007-02-24T12:34:31Z</updated>
   
   <summary>　直実１９歳のとき、鳥羽法皇の崩御を機に、皇位継承争いが起こった。これに摂関家相続問題が絡み、上皇と天皇、藤原家がそれぞれ武士団を従えて、保元の乱が勃発した。 　直実は源義朝に従い、多くの坂東武士とともに後白河天皇のもとに馳せ参じた。勝つためには手段を選ばぬ骨肉相はむ源平の親子兄弟別かれての戦いは予...</summary>
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      <![CDATA[<p>　直実１９歳のとき、鳥羽法皇の崩御を機に、皇位継承争いが起こった。これに摂関家相続問題が絡み、上皇と天皇、
藤原家がそれぞれ武士団を従えて、保元の乱が勃発した。</p>
<p><br />
　直実は源義朝に従い、多くの坂東武士とともに後白河天皇のもとに馳せ参じた。
勝つためには手段を選ばぬ骨肉相はむ源平の親子兄弟別かれての戦いは予想以上に厳しいものとなった。結果は、
後白河天皇方の勝利に終わったが、これより貴族社会から武家社会へと時は傾き、戦乱の世となっていった。源平の葛藤、戦乱によって、
いずれかが勝者となり敗者となる悲劇は、下級武士のみならず、一般庶民にいたるまで生じ始めたのである。<br /></p>
<p>&nbsp;</p>]]>
      
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   <title>平治年（1159）　「平治ノ乱、義朝に従い十七騎随一の名を得る」</title>
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   <published>2006-04-07T02:17:55Z</published>
   <updated>2007-02-24T12:34:31Z</updated>
   
   <summary>　直定は二人の子があり、長男太郎直正（十八歳で病死）と次男次郎直実であった。早く父を失い、久下権守直光に養育された直実は、幼少より弓矢の達人であり、性格は剛直であった。保元の乱に続いて、平治の乱には源氏に従い都に上り、各所の合戦に勇威をふるい、一騎当千の高名をあげた。中でも、平治の乱には悪源太義平に...</summary>
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      <![CDATA[<p>　直定は二人の子があり、長男太郎直正（十八歳で病死）と次男次郎直実であった。早く父を失い、久下権守直光に養育された直実は、
幼少より弓矢の達人であり、性格は剛直であった。保元の乱に続いて、平治の乱には源氏に従い都に上り、各所の合戦に勇威をふるい、
一騎当千の高名をあげた。中でも、平治の乱には悪源太義平に従い、侍賢門十七騎の随一といわれた。<br />
　しかし、戦さは平家方の勝利に終わり、大将の義朝も最期は救いを求めて頼った尾張の長田庄司忠到に欺かれ、湯殿で３８歳の生涯を閉じた。
落武者となった直実は、昼は笹の下に隠れ、夜は間道を通り、ようやく熊谷へと到着したのである。<br /></p>
<p>&nbsp;</p>]]>
      
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   <title>任安２年（1167）　「京都大番役」</title>
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   <published>2006-04-07T02:16:08Z</published>
   <updated>2007-02-24T12:34:31Z</updated>
   
   <summary>　大番役とは、諸国の武士が交替で上京し、皇居の警備の任につく、奈良時代より続く大宝律令に基づく地方武士の勤めである。叔父の久下直光は、費用がかさむことと煩わしさのため、そして病気との理由で、幼少から養育した恩に報いよと、直実を大番役に立てた。</summary>
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      <![CDATA[<p>　大番役とは、諸国の武士が交替で上京し、皇居の警備の任につく、奈良時代より続く大宝律令に基づく地方武士の勤めである。
叔父の久下直光は、費用がかさむことと煩わしさのため、そして病気との理由で、幼少から養育した恩に報いよと、直実を大番役に立てた。
<br /></p>
<p>&nbsp;</p>]]>
      
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   <title>任安２年（1167）　「平知盛に臣従する」</title>
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   <published>2006-04-07T02:15:23Z</published>
   <updated>2007-02-24T12:34:31Z</updated>
   
   <summary>　都への憧れと、叔父久下直光へ機嫌がとれると喜んで引き受けた直実であったが、華やかな平家の武士に比べ、大番役の武士たちは自ら用意した所持金で生活をまかなっていたため、日々の食料も十分ではなかった。また、人と人との関係も、地位や財力がないと冷ややかであり、久下直光の代人である故に下人扱いされ、都での生...</summary>
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      <![CDATA[<p>　都への憧れと、叔父久下直光へ機嫌がとれると喜んで引き受けた直実であったが、華やかな平家の武士に比べ、
大番役の武士たちは自ら用意した所持金で生活をまかなっていたため、日々の食料も十分ではなかった。また、人と人との関係も、
地位や財力がないと冷ややかであり、久下直光の代人である故に下人扱いされ、
都での生活も熊谷の生活と同じく甘いものではなかった<br />
<br />
<font face="ＭＳ 明朝">「新中納言知盛卿ニ属シ、多年ヲ送リヲワンヌ」</font><font face=
"ＭＳ 明朝"
      size="-1">（『吾妻鏡』）</font><br />
<br />
　賞金目当てで参加した力くらべの相撲に参加した直実は、日頃、荒川の大石を相手に鍛えた腕力で、次から次へと１０続けて投げ飛ばし、
その賞金を得たのである。これを見て、気品ある１５、６の若い武士が直実に声をかけ、仕官を誘った。清盛の第４子平知盛であった。
<br /></p>]]>
      
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   <title>治承４年（1180）９月　「石橋山の合戦 」</title>
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   <published>2006-04-07T02:13:31Z</published>
   <updated>2007-02-24T12:34:31Z</updated>
   
   <summary>　治承四年秋、前右兵衛佐頼朝が石橋山で旗揚げしたが、相模の大庭三郎景親率いる三千余騎に攻め落とされた。このとき直実は大庭の催促によってやむなく頼朝の陣に弓を引いたが、頼朝が土肥の椙山に難を逃れ、安房、上総にいたり、勢力を回復して武蔵国豊島原に陣をしき、関東の武士たちが源氏の応じた折、直実も頼朝の陣に...</summary>
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      <![CDATA[<p><img alt=""
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     align="right"
     border="0" />　治承四年秋、前右兵衛佐頼朝が石橋山で旗揚げしたが、
     相模の大庭三郎景親率いる三千余騎に攻め落とされた。このとき直実は大庭の催促によってやむなく頼朝の陣に弓を引いたが、
     頼朝が土肥の椙山に難を逃れ、安房、上総にいたり、勢力を回復して武蔵国豊島原に陣をしき、関東の武士たちが源氏の応じた折、
     直実も頼朝の陣に参加した。<br /></p>
<p>&nbsp;</p>]]>
      
   </content>
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   <title>治承４年（1180）９月　「源頼朝ニ臣従、「ほやと向い鳩」の紋を賜ふ」</title>
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   <published>2006-04-07T02:11:52Z</published>
   <updated>2007-04-26T13:48:05Z</updated>
   
   <summary>　大庭三郎景親に破れた頼朝は、数名の家臣と山腹の臥木の大洞に忍んでいた際に、直実と梶原景時に発見された。もはやこれまでとと覚悟を決めた頼朝に、そのまま潜んでいるようにと告げ、辺りにあった宿り木（ほや）の枝をとって大洞の口を隠した。 　後からあらわれた大庭勢が疑わしくしていると、直実は「こんな朽木の中...</summary>
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      <![CDATA[<p>　大庭三郎景親に破れた頼朝は、数名の家臣と山腹の臥木の大洞に忍んでいた際に、直実と梶原景時に発見された。
もはやこれまでとと覚悟を決めた頼朝に、そのまま潜んでいるようにと告げ、辺りにあった宿り木（ほや）の枝をとって大洞の口を隠した。
<br />
　後からあらわれた大庭勢が疑わしくしていると、直実は「こんな朽木の中に源氏嫡流の佐殿が入られるはずはあらず」と大庭勢を制した。
そのとき、この朽木より２羽の鳩が飛び出したため、「野鳩がいるようなところに人はいないであろう」と納得し、
他を探しにその場を離れていったのである。<br />
　テレビドラマなどでは、梶原景時公が頼朝公を助けたとよく描かれているが、『熊谷家文書』では、
直実が頼朝公を助けたのだと伝えられている。<br />
　その証拠に、直実は後に頼朝公から陣幕を拝領しており、この陣幕には、ほやの木（宿り木）の上に鳩が向かい合って２羽とまっている、
「ほやに向かい鳩」という紋が染め抜いてある。これがこれ以後熊谷家の家紋となっていることから、頼朝公を助けたのは直実だ、
と伝えられている。<br />
　また、後でのお話であるが、直実は頼朝公に対して何度か随分失礼なことをしております。ですが、ほとんどおとがめが無い。
そういったことから考えてみましても、やはり頼朝公を助けたのは直実であったのであろうと伝えられている。</p>
<p>　「源頼朝卿ハ石橋山ノ戦ニ破レシ時、伏木ノ内ニ隠レタリ。直実ハ蔦葛ヲ取ツテ頼朝ノ上ニ覆フ、ソノ後、木ノ中ヨリ鳩ガ出テキテ去ル。
敵ハコレヲ見テ、人無シト謂ヒ、兵ヲ引キ上ゲル。頼朝ハ直実ノ忠ニ感ジテ、蔦葛ヲ家紋トナサシム。」
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（『北条系図』）</p>
<p>　頼朝は、この危機から脱したのは八幡宮の御加護であるとし、その後、
御旗にも伊勢大神宮八幡大菩薩の文字の下に白鳩２羽を八文字に縫わせた。また、本陣の幕には、蔦車に八文字の鳩を染め抜いて用いた。
これを恩賞として直実に賜り、これにより熊谷家は、蔦に鳩を定紋としたのである。</p>
<p>&nbsp;</p>]]>
      
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   <title>治承４年（1180）10月　「富士川の合戦」</title>
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   <published>2006-04-07T02:11:01Z</published>
   <updated>2007-02-24T12:34:31Z</updated>
   
   <summary>　以仁王の「令旨」は諸国源氏の決起を促し、９月１７日には信濃源氏木曽義仲が挙兵し、１０日には甲斐源氏武田信義・信光が挙兵した。直実は、頼朝軍の一武将としてこの富士川に控えた。 　源平両軍は富士川を挟んで対陣していた。１０月２０日、武田軍が平家の背後に廻るため河口付近を渡ろうとしたとき、その騒ぎに驚い...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.yukokuji.com/mt_annai/">
      <![CDATA[<p>　以仁王の「令旨」は諸国源氏の決起を促し、９月１７日には信濃源氏木曽義仲が挙兵し、１０日には甲斐源氏武田信義・信光が挙兵した。
直実は、頼朝軍の一武将としてこの富士川に控えた。<br /></p>
<p>　源平両軍は富士川を挟んで対陣していた。１０月２０日、武田軍が平家の背後に廻るため河口付近を渡ろうとしたとき、
その騒ぎに驚いた水鳥たちが数万羽飛び立った。これを大敵来襲と勘違いした平家軍は、慌てふためき逃げまどい、
壊滅状態に陥り敗走したのである。</p>
<p>&nbsp;</p>]]>
      
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   <title>治承４年（1180）11月　「常陸国攻め、先陣の巧（一騎当千）を得る」</title>
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   <published>2006-04-07T02:10:39Z</published>
   <updated>2007-02-24T12:34:31Z</updated>
   
   <summary>　慌てて敗走する平家に対し、頼朝は冷静であった。直ちに追撃、上洛はせず、鎌倉背後の常陸国佐竹太郎義政・秀義を平定する指示を出した。佐竹氏の勢力は領外にも及んでおり、またその郎党は国中に拡がり、平家に恩顧を抱いている者も多かった。 　１１月４日、険しい絶壁を利用した山頂に建つ金砂山城に、直実は平山武者...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.yukokuji.com/mt_annai/">
      <![CDATA[<p>　慌てて敗走する平家に対し、頼朝は冷静であった。直ちに追撃、上洛はせず、鎌倉背後の常陸国佐竹太郎義政・
秀義を平定する指示を出した。佐竹氏の勢力は領外にも及んでおり、またその郎党は国中に拡がり、平家に恩顧を抱いている者も多かった。
<br />
　１１月４日、険しい絶壁を利用した山頂に建つ金砂山城に、直実は平山武者所季重とともに先頭で攻め入った。<br />
<br />
<font face="ＭＳ 明朝">「十一月七日　乙卯　軍兵ノ中、熊谷二郎直実、平山武者所季重、殊ニ勲功アリ。
所々ニオイテ先登ニ進ミ、サラニ身命ヲ顧ミス、多クノ凶徒ノ首ヲ獲タリ。ヨツテソノ賞傍輩ニ抽ンツヘキノ旨、直ニ仰セ下サルト云々。」
　</font><font face="ＭＳ 明朝"
      size="-1">（『吾妻鏡』）</font><br /></p>
<p>&nbsp;</p>]]>
      
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   <title>寿永元年（1182）6月　「熊谷郷地頭職任命」</title>
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   <published>2006-04-07T02:04:01Z</published>
   <updated>2007-02-24T12:34:31Z</updated>
   
   <summary>　治承四年十一月にあった常陸佐竹氏の金砂山城攻めの合戦で、直実は抜群の功を挙げ、板東一の剛の者と称され、熊谷地方の地頭職に任じられた。 「寿永元年六月五日　甲辰　熊谷二郎直実ハ、朝夕恪勤ノ忠ヲ励ムノミニ非ス、去ル治承四年、佐竹冠者ヲ追討ノ時、殊ニ勲功ヲ施ス。其ノ武勇ヲ感セシメ給フニ依リ、武蔵国ノ旧領...</summary>
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      <![CDATA[<p>　治承四年十一月にあった常陸佐竹氏の金砂山城攻めの合戦で、直実は抜群の功を挙げ、板東一の剛の者と称され、
熊谷地方の地頭職に任じられた。<br />
<br />
<font face="ＭＳ 明朝">「寿永元年六月五日　甲辰　熊谷二郎直実ハ、朝夕恪勤ノ忠ヲ励ムノミニ非ス、去ル治承四年、
佐竹冠者ヲ追討ノ時、殊ニ勲功ヲ施ス。其ノ武勇ヲ感セシメ給フニ依リ、武蔵国ノ旧領等、直光ノ押領ヲ停止シ、領掌ス可キノ由仰セ下サル。
而シテ直実此間在国シ、今日参上セシメテ、件ノ下文ヲ賜ハルト云々。<br />
下ス、武蔵国熊谷郷二郎平直実ノ所。<br />
定補スル所ノ事、<br />
右件ノ所、且ハ相伝ナリ。久下権守直光ノ押領ノ事ヲ停止シ、直実ヲ以テ地頭ノ職ト為スト、成シ畢ンヌ。其ノ故、何ニトナレハ佐汰毛四郎、
常陸国奥郡花園山ニ楯籠リ鎌倉ヨリ責メ給フ時、其ノ日ノ合戦ニ、勝レテ前懸ケシ、一人当千ノ高名ヲ顕ハス。其ノ勧賞ニ、
件ノ熊谷郷ノ地頭職ニ成シ畢ンヌ。子々孫々、永代他ノ妨ケ有る可カラス。百姓等宜シク承知シ、敢テ遺失ス可カラス。故ニ下ス。<br />
治承六年五月三十日」　</font><font face="ＭＳ 明朝"
      size="-1">（『吾妻鏡』）</font><br /></p>
<p><img alt=""
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     "http://www.yukokuji.com/mt_annai//media/img_20060407T112708187.gif"
     align="left"
     border="0" />　名実ともに、年来の思いであった旧熊谷郷の所領は直実の手に戻ったのであるが、
     この叔父久下直光との所領にまつわる争いはこの後も続き、建久３年に、ついに事件が起きるのであった。<br /></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>]]>
      
   </content>
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   <title>寿永３年（1184）1月　「宇治川の合戦」</title>
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   <published>2006-04-07T02:01:39Z</published>
   <updated>2007-02-24T12:34:30Z</updated>
   
   <summary>　寿永３年１月、源義経のもと直実は嫡子直家とともに宇治川にて戦った。結果は義経軍の勝利に終わり、平家を都から追い出して朝日将軍と名乗った源義仲は粟津松原にて追っ手の矢にてその生涯を閉じた。 　嫡子直家が矢傷を負うのは翌月２月、一ノ谷でのことである。先駆けの功をを焦る余り、直家は傷を負ってしまう。直実...</summary>
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      <![CDATA[<p>　寿永３年１月、源義経のもと直実は嫡子直家とともに宇治川にて戦った。結果は義経軍の勝利に終わり、
平家を都から追い出して朝日将軍と名乗った源義仲は粟津松原にて追っ手の矢にてその生涯を閉じた。<br />
<br />
　嫡子直家が矢傷を負うのは翌月２月、一ノ谷でのことである。先駆けの功をを焦る余り、直家は傷を負ってしまう。
直実は直家のことが心配でこの戦では十分な功を立てることができなかった。<br /></p>
<p>&nbsp;</p>]]>
      
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   <title>寿永３年（1184）2月　「無官太夫平敦盛を討ちとる」</title>
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   <published>2006-04-07T02:00:26Z</published>
   <updated>2007-04-26T13:49:24Z</updated>
   
   <summary>　いくさに敗れ、平家の君達は助け船に乗ろうと、汀の方へと逃げていった。その中に、練貫に鶴を縫いあしらった直垂に、萌黄の匂の鎧をつけ、鍬形をうった甲、黄金造りの太刀、切斑の矢、しげ藤の弓、連銭葦毛なる馬に黄覆輪の鞍をいている武者一騎を直実は見つけた。 「あれは大将軍とこそ見まいらせ候へ。まさなうも敵に...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.yukokuji.com/mt_annai/">
      <![CDATA[<p>　いくさに敗れ、平家の君達は助け船に乗ろうと、汀の方へと逃げていった。その中に、練貫に鶴を縫いあしらった直垂に、
萌黄の匂の鎧をつけ、鍬形をうった甲、黄金造りの太刀、切斑の矢、しげ藤の弓、
連銭葦毛なる馬に黄覆輪の鞍をいている武者一騎を直実は見つけた。</p>
<p><br />
<font face="ＭＳ 明朝"><img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://www.yukokuji.com/mt_annai//media/img_20060407T113030968.gif"
     align="left"
     border="0" />「あれは大将軍とこそ見まいらせ候へ。まさなうも敵にうしろを見せさせ給ふものかな。かへさせ給へ。」
      　</font></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><font face="ＭＳ 明朝"><font face=
"Times New Roman">　直実にそう扇ぎをあげられると、その武者はとって返ってきた。格闘の末、直実は、とっておさえ、
頚をかかんと甲を押し上げてみると、我子小次郎くらいの年齢で、薄化粧し、容顔美麗にて、どこに刀を立てるたらよいのかと躊躇した。
<br />
<br /></font> <font face="ＭＳ 明朝">「抑いかなるひとにてましまし候ぞ。名のらせ給へ、たすけまいらせん。
」と申せば、「汝は誰そ」ととひ給ふ。「物そのもので候はね共、武蔵国住人、熊谷次郎直実」と名のり申。
「さてはなんぢにあふてはなのるまじいぞ、なんぢがためにはよい敵ぞ。名のらずとも頚をとって人にとへ。見知らふずるぞ。」とぞの給ひける。
</font> <font face="Times New Roman"><br />
<br />
　武者がこう言うのを聞き、直実はこう言った。<br />
　<br /></font><font face="ＭＳ 明朝">「あっぱれ大将軍や、此人一人うちたてまつたり共、
負くべきいくさに勝べき様もなし。又うちたてまつらず共、勝津べきいくさにまくることよもあらじ。助けたてまつらばや。」
</font><br />
<font face="Times New Roman">　<br />
　小次郎が軽い傷を負っただけでも直実は心苦しく思うのに、この武者の父が、討たれたと聞いたらどれ程嘆かれることであろう、と思い、
見逃そうと考えたのである。<br />
　しかし、後ろに、源氏方の武士たち五十騎ばかりがどんどん近づいてくるのを見ると、直実は涙をおさえ言った。<br />
　<br /></font><font face="ＭＳ 明朝">「たすけまいらせんとは存候へ共、御方の軍兵雲霞の如く候。
よものがれさせ給はじ。人手にかけまいらせんより、同じくは直実が手にかけまいらせて、後の御孝養をこそ仕候はめ。」と申しければ、
「ただ疾く疾く頚をとれ」とぞの給ひける。</font> <font face="Times New Roman"><br />
　<br />
　直実はあまりにもいとおしく思い、どこに刀をたてたらよいものかわからず、迷っていたが、そうしてもいられず、泣く泣く頚を落とした。
<br />
　<br /></font><font face="ＭＳ 明朝">「あはれ、弓矢とる身ほど口惜かりけるものはなし。
武芸の家に生まれずば、何とてかかるうき目をばみるべき。なさけなうもうちたてまつる物かな。」</font> <font face=
"Times New Roman"><br />
　<br />
　しばらくたち、直実は、鎧直垂をとって頚を包もうとすると、錦の袋に入った笛が腰にさしてあるのに気づいた。<br />
　<br /></font><font face="ＭＳ 明朝">「あないとおし、この暁城のうちにて管弦し給ひつるは、
この人々にておはしけり。当時みかたに東国の勢なん万騎かあるらめども、いくさの陣へ笛もつ人はよもあらじ。上臈は猶もやさしかりけり。」
</font> <font face="Times New Roman"><br />
　<br />
　九郎御曹司（源義経）の見参に入れるにあたって、これを見て涙を流さないという人はいなかった。後に聞くと、
修理太夫経盛の子息太夫敦盛ということで、生年十七とのことであった。笛は名を小枝といい、祖父忠盛が鳥羽院より給わり、
経盛が相伝されたものを敦盛が所持していたのであった。<br />
　この一件により、以前より武士としての自分に無常を感じていた直実の発心のおもいはいっそう強いものとなったのである。<br />
「平家物語」では次のように結んでいる。<br />
　<br /></font><font face="ＭＳ 明朝">「狂言綺語の理といひながら、遂に讃仏乗の因となるこそ哀なれ。」
</font> <font face="Times New Roman"><br />
　<br />
<font size="-1"><font size="1">参考：「平家物語」
日本古典文学大系　岩波書店発刊</font></font></font></font></p>
<p><font face="ＭＳ 明朝">　狂言綺語とは、常識を逸し、巧みに飾った言葉の意、讃仏乗とは、仏法の功徳を讃え、
広く人々を悟らせるという意味である。敦盛を討ったことが、いくら悲しくも美しく涙を誘う話であったとしても、
所詮は人を殺めたことに変わりはない。そのことが、直実が仏門に入ったきっかけとなったことは悲しいことである。
できれば他のことがきっかけで仏の道に入れればよかった。直実47歳のときのことである。</font></p>
<p><font face="ＭＳ 明朝"><br />
&nbsp;</font></p>]]>
      
   </content>
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   <title>寿永３年（1184）2月　「平経盛に遺品及び一文を送る（送リ状）」</title>
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   <published>2006-04-07T01:59:20Z</published>
   <updated>2007-02-24T12:34:30Z</updated>
   
   <summary>　義経軍の一人として一ノ谷の合戦に参加した直実であったが、須磨の浦で心ならずも討ち取った敦盛の顔が傷を負った嫡子直家と重なり、頭を離れないでいたいた。その悔悟のためか、直実は義経に願って、敦盛の首とその遺品青葉笛をもらい請け、一紙の消息文をつけ、敦盛の父修理太夫経盛のもとへ送り届けた。 「直実謹ンデ...</summary>
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      <![CDATA[<p><img alt=""
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     align="right"
     border="0" />　義経軍の一人として一ノ谷の合戦に参加した直実であったが、
     須磨の浦で心ならずも討ち取った敦盛の顔が傷を負った嫡子直家と重なり、頭を離れないでいたいた。その悔悟のためか、
     直実は義経に願って、敦盛の首とその遺品青葉笛をもらい請け、一紙の消息文をつけ、敦盛の父修理太夫経盛のもとへ送り届けた。
     <br />
<br />
<font face="ＭＳ 明朝">「直実謹ンデ言上ス<br />
ハカラズモ此ノ君ト参会シ奉ル。呉王ハ勾践ヲ得テ、秦皇ガ燕丹ニ遇フニ、勝負ヲスグ決セントスルニ、ソノ容正シキフルマヒヲ拝スルニヨツテ、
俄ニ怨敵ノ思ヒヲ忘レ、武威ノ勇ヲ失ヒタリ。<br />
　ノミナラウ、守護ヲ加ヘ奉ラント思ヒシガ、源氏大勢シ襲来シ来ル。時ニ源氏ヲ射ルトイヘドモ、彼ハ大勢、レハ無勢ナリ。樊カイ、
養由ガアツテモカナハズ。<br />
　是ニ直実、タマタマ生ヲ弓馬ノ家ニ受ケ、幸ニ武勇国中ニカガヤキ、城ヲ落シ旗ヲ靡シ、敵ヲ虐シ、
天下無双ノ名ヲ得ルトイヘドモ蟷螂ガ車ヲ覆シ、螻蟻ガ岸ヲクヅスガ如ク、弓ヲ引キ、矢ヲ放ツテ、空シク命ヲ東軍ニ奪ハレ、
イタヅラニ名ヲ西海ノ彼ニ沈ムルコト、自他家ニ科スノ面目ニアラズ。<br />
　シカルニ御君ノ御意ハ、早ク御命ヲ直実ニ給テ菩提ヲトムラフベシト仰セ下サル。依ツテ、タチマチノチマチノ落涙ヲオサヘ、
ハカラズシテ御首ヲ給リ畢ンヌ。恨メシ哉、此君直実ト悪縁ヲ結ビ奉ル。悲シキ哉、宿運久シク怨敵ノ害ヲナス。
シカリトイヘドモ飜ツテ逆縁ニアラザレバ、イカデカ互ニ生死ノ紲ヲモツテ、一蓮ノ実トナラン。<br />
　シカラバ、則チ、偏ニ、閑居ノ地ヲシメシテ、ネンゴロニ御菩提ヲ祈リ奉ルベシ。直実ガ申スコトノ真偽、後聞ニ其ノ隠レ無ク候。
此ノ趣ヲモツテ御披露洩シアルベク候。　　　恐惶謹言<br />
　二月十三日　　　　　直　実<br />
<br />
進上　平内左衛門尉殿　　　」</font><br /></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>]]>
      
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   <title>寿永３年（1184）２月　「平経盛より礼文が届く（返シ状）」</title>
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   <published>2006-04-07T01:32:45Z</published>
   <updated>2007-02-24T12:34:30Z</updated>
   
   <summary>　末子の敦盛のことを、殊のほか案じていた修理太夫経盛は、御首、遺物、書状を受け、「ありがたきかな、かかる人の手に討たれしば」と、返書をしたためた。 「今月七日、摂州一ノ谷に於いて敦盛を討たれ死骸並びに遺物送り給はり畢んぬ、花落の故郷を出で、各々西海の波の上に漂ひしより、以来運命の尽きる事、始めて思ひ...</summary>
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      <![CDATA[<p>　末子の敦盛のことを、殊のほか案じていた修理太夫経盛は、御首、遺物、書状を受け、「ありがたきかな、かかる人の手に討たれしば」
と、返書をしたためた。<font face="ＭＳ 明朝"><br />
<br />
「今月七日、摂州一ノ谷に於いて敦盛を討たれ死骸並びに遺物送り給はり畢んぬ、花落の故郷を出で、各々西海の波の上に漂ひしより、
以来運命の尽きる事、始めて思ひ驚くべきに非ず、又戦場の上に望んで何ぞ二度帰る事を思んや、生者必滅は穢土の習ひ、老少不定は常の事也、
然りといへども親となり子となる事先世の契約浅からず、釈尊も御子羅喉羅尊者を悲しみ給ふ、応神権化猶以て斯くの如し、
況や底下白地の凡夫に於いておや、然るに去る七日、打ち立し今日に至るまでその俤げ未だ身を離れず、来燕囀づると雖も其の声聞く事なく、
帰雁翅を双へて飛び帰ると雖も音信を通ぜず、必定討たるヽの由伝え承ると雖も未だ其の実否を聞かざるの間、何ぞ風の便りに其の音信を聞かん、
天を仰ぎ地に臥して神仏に祈誓し奉り感応を相待つ処、七ヶ日の内彼の死骸を見る事を得たり、是れ即ち神仏の与ふる所也、然る間、
内信心弥々肝に銘じ、外感涙之れを増す心を催し袖を浸す、但し生きて二度び帰り来るが如し、又是則ち相活きるに同じ、
抑々貴辺の報恩に非んば争で之を見る事を得んや、一門風塵皆以て之を捨つ、況や怨敵をや、和漢両朝を尋るに古今未だ其の例を聞かず、
貴恩の高き事須弥頗る下くし、報恩深き事蒼海還りて浅し、進んで之に酬いる未来永々たり、退いて然して報ずるに過去遠々たり、
万端多しと雖も筆紙に尽くし難し、併せて之を察せよ。<br />
　　　　　　　　恐惶謹言<br />
　二月十四日<br />
熊谷二郎殿　御返事　　　　」</font> <font size="-1">（当寺什物『経盛返状』）
</font><br /></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>]]>
      
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