2010年08月16日

●「法然上人伝」

「文殊菩薩一体お届けします」

 平成二十三年正月二十三日、法然上人の八百年御忌(ぎょき)が訪れます。皆さまご存じの熊谷蓮生法師の師匠でもあり、浄土宗を開かれた方でもあります。この八百年御忌を迎えるにあたり、法然上人の生涯を少しばかり振り返っていきたいと思います。

 法然上人のお生まれは、平安時代末の頃で、長承二(一一三三)年四月七日のことです。美作国久米南条稲岡庄(現在の岡山県久米南町)に押領使(おうりょうし)という役を任じられた漆間時国(うるまのときくに)という豪族がいました。時国の妻は渡来人の流れをくむ秦氏(はたうじ)といいました。

 時国夫妻には久しく子供が授からず、館近くの岩間観音と呼ばれる寺にて祈願を重ねていたところ、その成満の日に、秦氏が剃刀を呑むという不思議な夢を見て懐妊され、お生まれになったのが法然上人でした。幼名は、智恵の象徴である勢至菩薩(せいしぼさつ)にちなんでは勢至丸(せいしまる)と名付けられました。

 また、このとき、空には紫雲がたなびき、貴い人が生まれた瑞(あかし)とされている二流の(ふたながれ)白い幡が、どこからか風に流れてきて、庭の椋の木に掛かったと言われています。

  「両幡(ふたはた)の天下り(あまくだ)ます椋の木は

       代々に朽ちせぬ法(のり)の師のあと」

 このお歌は蓮生法師が、師匠法然上人の生家を初めて訪れたときに詠まれたものです。法然上人御自作の木像を背負って、法然上人の代わりにご両親のお墓に参った蓮生法師は、この椋の木を見て、「お念仏の教えは、今までも、今も、そしてこれからいつまでも決して朽ちることはない」と感激し涙を流しながら念仏を称えたと伝えられています。

 両親の慈愛のもとで健やかに育たれた勢至丸でしたが、九歳のとき、明石定明(あかしさだあきら)という源内武者(げんないむしゃ)の夜襲を受けます。この明石定明とは、都の貴族が地方に所有する荘園(私有地)の管理を任せるために派遣したひとりです。一方、漆間時国は国の役人として押領使という権限を与えられています。両者がぶつかるのは避けられないことで、今まで積み重なった確執がここに夜襲という形で爆発したのです。

 寝込みを襲撃された時国が不利なのは言うまでも無いことですが、日頃から武芸に秀でていた勢至丸さまも弓を引いて応戦されました。その一筋の矢が明石定明の右目を射貫いたのです。重傷を負った定明の軍勢は一斉に引き上げていきましたが、時国もかなりの重傷を負い、この数日後に息を引き取ったのです。

死の間際の父時国に対して、勢至丸はこう言いました。

「父上、この仇は私が必ず果たしてみせます。」

こう息巻く勢至丸に対し、時国は息も絶え絶えながらこう言ったのです。

「このたびの出来事はみな私の至らなさによるものである。もし、これを恨み、お前が仇討ちをするなら、相手もまたお前を恨み、仇討ちは尽きることなく繰り返されていく。出家をして私の菩提を弔ってくれ。そして、すべての人々が争うことなく、楽しく健やかに暮らしていける教えを探してくれ。」

 父時国の遺言をしっかりと胸に受けた勢至丸は、鳥取県との境近くにある那智山(なちさん)というところにある菩提寺(ぼだいじ)という寺に入りました。

 この菩提寺は、母秦氏の弟である観覚(かんがく)上人が住職を務めている寺です。叔父観覚のもとで仏の教えを学ぶこととなった勢至丸は、どんどんいろんなことを吸収し、覚え、そして自分のものとしていきました。こんな山奥に埋もれたままで一生を終えるのは惜しいと感じた観覚は、勢至丸に当時の仏教の最高峰である比叡山へ上ることを勧めます。

 比叡山に上るということは、母と子の長い別れを意味します。夫時国を失い、今また子とも別れなければならない母秦氏の胸中はいかばかりであったでしょうか。もちろん、このとき十五歳であった勢至丸にとっても辛い別れです。しかし、亡き父の願いである「すべての人々が楽しく健やかに暮らしていける教え」を必ず探し当てなければという熱い思いを胸に、悲しみを振り切って比叡山へと上ったのです。この思いが、やがてお念仏というすべての人々が救われる教えを開かれる大きな力となったのです。

 冒頭の「文殊菩薩一体お届けします」という一文ですが、勢至丸を比叡山へ紹介するにあたり、叔父観覚が師匠である持宝房(じほうぼう)源光(げんこう)上人への宛てたお手紙の中の一節です。

 文殊菩薩と称されるほど聡明であった勢至丸は、のちに比叡山において智恵第一と称されるほどの僧侶となったのですが、お念仏の教えにたどり着くまでの道はまだまだ険しいものでした。

2010年07月28日

●「平成22年盆施餓鬼会受付開始」

本日より平成22年盆施餓鬼塔婆申込み並びに墓地管理費納入の受付が始まりました。

期間 平成22年7月28日から8月10日まで

時間 午前9時から午後4時まで

上記以外の期間、若しくは遠方の方はお手数ですが現金書留郵便にてお申込み下さい。受付処理をしました後、領収書とお塔婆引換証をご送付させていただきます。(FAXや電話にてのお申込みは以前よりトラブルのもととなっておりますのでご遠慮下さい。)

2010年06月08日

●「大本山増上寺御忌法要団体参拝」

大本山増上寺御忌法要団体参拝

 期日   平成二十三年四月五 日帰り

 浄土宗大本山のひとつ東京芝の増上寺にて、法然上人の八百年御忌法要がお勤めされます。現在のところ、会費や日程等の詳細は未定です。ご関心お持ちの方はその旨お申し出下さい。後日、ご案内をさせていただきます。

2010年05月01日

●「総本山知恩院御忌法要団体参拝」

総本山知恩院御忌法要団体参拝

 期日   平成二十三年三月二十七日~二十八日

 浄土宗を開かれた法然上人の八百年御忌法要が総本山の知恩院にてお勤めされます。浄土宗埼玉教区にて団体参拝が企画されております。現在のところ、会費や日程等の詳細は未定です。ご関心お持ちの方はその旨お申し出下さい。後日、ご案内をさせていただきます。

2010年04月24日

●「天上天下、唯我独尊」

天上天下、唯我独尊

 お釈迦さまは生まれると、すぐに七歩ほど歩み、右手で天を、左手で地を指さしてこうおっしゃいました。

「天にも地にもただ我れひとり尊いものである。」

 これを聞きますと、「自分だけが尊い存在であり、自分以外は虫けら同然である」という意味に解釈されてしまいます。

 お釈迦様がそんなあきれたことを言うはずがない。本当の意味は違うのではないか。

そこで、今までの仏教学者たちはこう解釈しました。

「人は誰でもこの世に一人だけである。人と人に尊い尊くないの区別はない。この人も、あの人もそれぞれに尊いものである。」

 この考え方ですが、お聞きになれば確かにその通りだと思う方が多いかと思います。

ですが、お釈迦様の言葉はこれだけでなく、後にこのような言葉が続いてあります。

三界皆苦、我当度之

「三界は皆苦しみの世界である。我れはまさにこれを度したてまつる。」

 お釈迦様のこの言葉はどのような意味かと申しますと、

「三界の衆生は皆苦しんでいる。私はこれを取り除き、心を安らかなものとす。」

 すなわち、「すべての人々の苦しみを取り除くのだ。」とおっしゃっているのです。

「自分はすべての人々の苦しみを取り除き、心を安らかにするために生まれたのである。そのようなことが出来るのは天にも地にも私ひとりである。」

 ここで言う「尊い」という言葉は「尊敬する」という字の「尊い」とは若干ニュアンスが異なります。インドの言葉であるサンスクリット語から中国語に翻訳された際に、その翻訳者にお釈迦様を尊敬する気持ちがあったため「尊い」という文字が使われたのではないかと言われています。

 お釈迦様がお生まれになって、こう宣言されたとき、天に住む竜は感激して甘露の雨を降らし、その雨水が産湯として使われたと伝えられています。甘茶を掛けるのはこのことに由来しています。

 また、花御堂はお釈迦様がお生まれになったルンビニ園という場所を表現しています。

 花まつりは、インドや中国でも古くから行われている行事です。日本では推古天皇の時代(606)に元興寺で初めて行われました。お釈迦さまの誕生を祝い、お釈迦さまの智慧と慈悲の教えを信じてゆくことを誓う日です。

 本日、当寺にて花まつりが厳修されました。天気も良く、檀信徒の皆さま、一般の方々、総勢百数十名の方々が集い、お釈迦さまの誕生をお祝いされました。お念仏・詠唱の会の皆さまの『花まつり和讃』の奉納も行われました。

2010年04月03日

●「花まつりのご案内」

聖号十称

檀信徒の皆さま、芳春を迎え益々ご健勝のことと存じます。 この度、当山では四月八日のお釈迦さまの誕生日をお祝いする降誕会(花まつり)を奉修させていただきます。当日、甘茶を掛けさせていただく誕生仏さまと花御堂も、つい先日完成いたしまして、皆さまのお越しをお待ちしております。 お念仏・詠唱の会の皆さまの御和讃奉納もございます。

 日時等は下記の通りとなります。初めての試みのため、不手際等あるかと思いますが、ご家族・お友達の方々お誘いの上遊びにいらして下さい。

合掌 

 日  時       平成22年4月24日(土)

 場  所       熊谷寺本堂

 開門時間     午後1時から午後3時30分まで

 法要・御和讃奉納  午後1時30分から 

 

          *お車でのご来寺はご遠慮下さい。

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2009年09月20日

●「讃岐の蓮生法師」

 建永2年(1207)、法然上人は弟子住蓮・安楽の死罪に伴い、四国高松へと配流されたことはご存じの方も多いことと思いますが、その後を追って、蓮生法師も四国へと渡ったということは初めてお聞きになる方も多いでしょう。ましてや、そこで浄土へと往生されたという伝承も残っております。

 9月7、8日の2日間、増上寺布教師会の研修で瀬戸内の塩飽本島、四国香川県を訪れました。そこに語り伝えられている話、そして蓮生法師旧跡等を何回かに分けてご紹介させていただきます。