●「盆施餓鬼会厳修」
本日、無事大施餓鬼会法要を厳修させていただくことができました。
今年は日本一を記録した昨年に比べ過ごしやすい送り盆となったのではないでしょうか。とはいいましても、 4時頃から降り始めた雨は轟音と稲光を伴い、今もまだ降り続いています。涼しくなるのはありがたいのですが、用水路は氾濫して道路は冠水し、 一度乗った車からは出られない状態です。夕方からお墓参りに行かれたお檀家さまにおかれましてはさぞや大変であったことかと思います。 どうか風邪などひかれないようにお気を付け下さい。
さて、本年の法要では初めて散華をさせていただきました。
散華とは仏を供養するために仏前に花を撒き散らす作法です。また、仏さまにおいでいただくのですから、その場を清め、
きれいに飾るといった意味もあります。事前の説明が不十分であったため反省しておりますが、
このお華はお持ち帰りいただいて結構なものです。
仏さまに確かにおいでいただいたという証拠となるものとお考えいただければと思います。
また、法要にご参会いただきました檀信徒の方にはお線香をお配りさせていただきました。ほとんどの方にはお配りできたかと思いますが、 ご用意させていただきました340束をすべて配り終えましたので、法要に参会された方以外にも少しはお配りすることができたかと思います。
先代の跡を継ぎ、最初の盆施餓鬼会法要でしたため至らぬ点も多く、お腹立ちの方も多々いらっしゃるかと思いますが、
檀信徒の皆さまのために心からお勤めさせていただく所存でおります。
今後ともよろしくお願いいたします。
田んぼや畑のの畦道や街角などに真っ赤に花を咲かせます。この真っ赤な色が火を連想させることから、
家に持ってくると火事になるなどと忌み嫌われることもあります。
研修中、移動をするときは必ず行道(1列に並んで合掌、
お念仏を称えながら歩く)となります。食事に行くときは同じ建物なのでまだいいのですが、
お勤めや帰敬式などのために知恩院に向かうときには坂を登るので、とても大変でした。普段なら何ともない坂なのですが、
声を出しながらなので息が続かないのです。ただ、先導してくださったお坊様も息が切れていたので、(私はいつもお坊様のすぐ後ろを歩いていましたので、その様を見てしまいました・・・フッ)
少し安心しました。
その他にも、朝のお勤めのときに痺れて痛い足で一所懸命正座をし続けていた若いカップルのことなど、
お伝えしたいことがたくさんあるのですが、そろそろご報告を終わりにしたいと思います。
3月末の京都、帰敬式が始まる頃はずいぶん日も落ち、薄暗い中、宿舎を出発しました。1列に並び、
お念仏を称えながら知恩院につづく坂を登ります。(大きな声を出しながらですので、これが結構きついのです。)
知恩院本堂隣の阿弥陀堂が帰敬式の会場です。
鈴と鉦を使って歌う御詠歌は知っていたのですが、今回教えていただいた「仏教聖歌」は初めてでした。
また、参加者の皆さんもほとんどが初めてであったようで、曲は「月かげ」、「われらのよるべ」、「みほとけは」、「浄き門出」、
「念仏」、そして「ああこのよろこび」の6曲を学びました。
教えてくださった先生は、とても通る良いお声で、ずっと聞いていたいくらいでした。
ご自坊の法事を終えてすぐいらしたので、昼食を食べる時間がなかったということに加えて、
午後3時頃から5時近くまでほとんどずっと大きな通るお声で歌い続けられていたので、
最後のほうはもうフラフラになっていらっしゃいました。講義の後、復活するまで時間のかかったことと思います。
今回は西山精司先生によります「浄土宗のおつとめ」についてご報告いたします。
仏花・供物・御膳の供え方、僧侶の法衣についての講義では、お寺の儀式だけではなく、
日常生活でも活用できそうな、主婦にはうれしい知りたい事柄をたくさん教えていただきました。
他の参加者の皆さんも興味深そうに聞き入っておられました。講義に行くのが少し遅くなり、一番前の席になってしまった(しまった?
いえいえ、最初から一番前に座るつもりでした。)のですが、法衣の講義のときなどは、
近くで見るために皆さん前に集まって来ましたので、結果的に前で良かったのかな†、などと思ったりもしました。
この歌は、
皆さんご存じと思いますがフォーク界の重鎮吉田拓郎が1973年に発表したアルバム「LIVE’73」に収められている1曲
「野の仏」です。これまた皆さんご存じと思われますフォークグループかぐや姫の一人南こせつのことです。彼らは、
当時群馬県嬬恋村などで夜通し合同ライブを行うなど親交の深い間柄でした。それ故、このような歌ができたのでしょう。
講義は、斉藤舜健先生による「浄土宗の教え」、西山精司先生による「浄土宗のおつとめ」、
そして小坂井淳弘先生による「仏教聖歌」の3つでした。
寺庭(じてい)婦人とは僧侶の妻のことで、
なぜそう呼ぶのかというと・・・というのは次回以降に譲るとしまして(調べておきます(^_^;))、
基本的に新婚ホヤホヤの寺庭婦人(若葉)を対象とした研修会です。「若葉」
というには少し葉脈が浮き上がりつつあるなと自覚しつつある今日この頃ですが、各教区(各県ごと)2名の募集に運良く、
いえいえ阿弥陀さまのおかげで、先着順で間に合い、参加することとなりました。
新政府軍は薩摩・長州の藩軍が主体となっています。私の妻が鹿児島出身ということもあり、
どうしても薩摩軍をひいきしてしまいます。が、参加された人数がちょっと少なかったですねぇ。映画などで使用した大砲や、
自作の軍服など見るべきものは多かったのですが、観客も少なかったです。やはり、
熊谷の人間は文化的なことに関心が薄いのでしょうか?
実際には旧家の文書によると、行田忍城と新政府軍との間で会談がもたれ、
忍城は無条件で恭順の意を示し、戦を回避したようです。憐れなのは、忍城城下に詰めていた旧幕府の歩兵部隊です。打って変わって、
彼らは忍領内で唯一の朝敵となってしまったわけです。そこを新政府軍が急襲したのが梁田の戦いと伝えられています。
彼らのうち3名は命を落とし、報恩寺(当時は現在の熊谷郵便本局に位置していた)に葬られたと言われています。