2005年06月01日

●2祖聖光上人の布教活動

 九州に形成された鎮西派教団の教線を鎌倉に進出させたのは現実的には聖光の弟子良忠であるが、その教線を関東一円、 東北へ推し進めたのは良忠門下のいわゆる関東3派の派祖たる良暁、性心、尊観であり、 さらに一転して京都へ西進さしたのは京都3派の派祖である慈心、然空、道光等であったといえる。
 道光は鎌倉の人で文永9年(1272)頃に京都に移住したが、入れ替りに然空と慈心が鎌倉に下つて良忠の教を受け、さらに建治2年 (1276)に良忠を京都に招請し、良忠を中心に道光、然空、慈心等による活発な弘教がなされた。 宗祖滅後半世紀をへて鎮西派教団の京都進出が始まったわけである。

 この頃京都では法然の流れを汲む者の中で異議が並び立ち、相互に是非を争っている状態であったが、教団として勢力のあったのは、 証空の門流から成る西山派であった。このような状態の京都へ何一つ地盤を持たぬ鎮西派が教線を拡張しようとしたのである。 彼等がとった進出の方法は、自派が祖教を守り正統の宗義を相承していることを証明するにあった。


 道光の編纂したごとく『漢語灯録』『和語灯録』は序文によると、 門徒中異説紛々として各各師説と称して自義を主張しているために迷いやすくなっているのを憂い、祖教を守らんが為に遺文を集めるとあり、 宗祖の古き跡をたずね、近代の新しい道(異議)を捨てんと思うその態度を表明している。 そこには正統の義を継承していみのばわれわれでなくてはならないという意識が底に流れているのがわかる。また、 隆寛が宗祖の伝燈者たることを主張した『明義進行集』の撰述時期と相前後する弘安7年(1284)に書き上げられている『聖光上人伝』は、 聖光は宗祖から宗義を皆伝した旨の自筆書状を送られたことになっており、 道光はもし宗祖が聖光に教授しなかったならば法は滅したであろうと述べている。つまり, 聖光は宗祖から正統の義を相伝した後継者であることが強調されている。

 また、さらに弘安10年(1287)に良忠が没すると、すぐに『然阿上人伝』を著わし、 良忠が宗祖から浄土宗義を受けた聖光からさらに相承の義を相伝したことを主張している。そのことはすなわち宗祖から聖光へ、 聖光から良忠へと次第する鎮西派の法系こそが正統で、その相承の義が祖教であることを主張し、鎮西教団そのものの正統性を宣言したのである。 このことは既に良忠が自ら『三代の相承』と述べているところにも見られる。ここに聖光を二祖とし、良忠を三祖とする法統が成立し、 実際にはに京都に進出した鎮西教団によって樹立されたものであった。

 宗祖-聖光-良忠の正統性を強調した鎮西派の人々はさらに、宗祖-源智-蓮寂と次第する法系(紫野門徒)との接近を図った。 源智は宗祖の有力門弟の一人であったが、その法系は『法水分流記』にも源智-蓮寂-道意としか出ていないように振わなかったが、 源智以下いずれも宗祖門下にとって関心事である宗祖の遺跡を守っていたという事実があった。すなわち三人とも賀茂の河原屋 (百万遍知恩寺の前身)に居住していたにも関わらず、源智-蓮寂の法系は門流の争いには超然として宗義宗団的に無色であった。
 この法系に対して嘉禎3年(1237)源智が聖光に書を贈り、法然上人の正統伝持を学んだことや、 良忠と蓮寂が東山赤築地で宗義を校合し異途なきことを確めたという話も伝えられている。いずれも史実と考えられないが、 このような話を作り出した者の意図がどこにあったのか、またその教団的背景がどのようなものであったかは想像できるところである。正確には、 鎮西教団は宗祖-聖光-良忠という法燈を確立して、独自性を保ちながら、他方で宗祖-源智- 蓮寂の法系と結びついて京都での足場を固めたのである。

 鎮西教団の京都進出の過程は、知恩寺の歴代を通してうかがうこともできる。知恩寺の歴代は、宗祖-源智-蓮寂と次第して、道意、 智心、如空へとつづく。道意は蓮寂に嗣法し、また良忠にも宗要を受けたと伝えられ、如空も慈心と良忠から宗義を相伝したといわれているから、 鎮西派進出のようすが現われており、やがて鎮西派で育った人が住持するようになる。知恩寺8世の空円は慈心について得度し、 良忠に師事した人であった。このように、鎮西派は諸派分立する京都へ入り、次第に地歩を築き上げていったのである。


 鎮西派の京都進出は成功し、やがて浄土宗を代表するまでに発展した。鎮西派がこの様に教団的に成長していったのは、 この派が京都に入る以前からすでに開始してい自宗寺院の建立ということにその一因があると考えられる。他の派がまだ他宗寺院によりかかるか、 或は衝をすみかとしていた頃に、一歩進んで自宗の道場や寺院を持って布教を始めたということは、一方では聖道門教団の弾圧を防ぎ、 一方では積極的かつ持続的な伝道を可能にしたのである。浄土宗寺院団の胚芽は鎮西派にあったと言える。

*本文は浄土宗宗務庁教学局発行『浄土宗史』より抜粋編集したものです。

 

●宗祖法然上人のお弟子たち

 宗祖のお弟子たちには多くがいるが、『私聚百因縁集』(愚観著)や『浄土法門源流章』(凝念著)によれば、以下の五流があげられ、 各々が教義をたて、門流を競い合っていたとされる。


 
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聖光房弁長
(1162-1238) 

 筑後の善導寺を本所とし、その地に因んで鎮西義と呼ばれる。滅後590年に仁考天皇より「大紹正宗国師」の諡号を賜った。 浄土宗2祖。
 出身は香月氏の系統で筑前遠賀郡、宗祖の門に入ったのは、建久8年(1197)である。幼少の頃より天台の教学を学び、 寿永2年(1183)、22歳で比叡山の宝地房証真に就いて修学し、30歳にて油山の学頭となった。32歳のとき、 舎弟三明房の不幸に遭遇し、深く世の無常に驚き、このとき以来ひとえに心を西方へ寄せたと伝えられている。
 建久8年(1197)、明星寺塔の本尊を迎えるために上洛し、その仏像の完成を待っている間に宗祖と法縁を結んだ。仏像が完成した後に、 一旦は鎮西に帰ったが、建久10年(1199)再び宗祖の房に帰参し、6年間に渡り宗義を学び、『選択集』の相伝を受けた。
 以来、聖光上人は新たなる使命感に燃え、随所に法を説き、寺院を開創した。伊予、中国、筑前、筑後、肥後などその行跡は各地に広がった。 そして、建保5年頃にその教化の根拠地を善導寺に置いた。
 聖光上人の弟子には九州の者が多いが、主な弟子には宗円・聖護等がいた。宗円は天福元年に入宋し、 善導大師の弥陀義を求めたが得ることができなかったため、盧山に赴いて慧遠の宗風を受けた。 帰国後は浄土宗蓮社号の始まりである白蓮社と号し、聖光上人に師事した。また、聖護は檀越である草野氏の出身で、 その一生を聖光上人に常随することに専念した。

(系譜) 聖光 ┬ 良忠      
                  ├ 宗円(白蓮社)      
                  ├ 敬蓮社 ─ 宝蓮社    
           ├ 教阿      
           └ 聖護      
 
  『末代念仏授手印』一巻
 『浄土宗要集(西宗要)』六巻
 『徹選択本願念仏集』二巻
 『認知浄土論』一巻
 『浄土宗名目問答』三巻
 『念仏名義集』三巻
 『念仏三心要集』一巻

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成覚房幸西
(1163-1248)

   宗祖の門に入ったのは建久9年(1198)であり、 七箇条起請文にも署名をしている。 宗祖の生前に一念の新義をたて、宗祖の滅後も一念義をもって盛んに教化した。光明房の書によって、 宗祖にその一念義を停止されるといった事態もあった。
 幸西の一念義は、天台義を利用して浄土教の特殊性を高揚したものとして注目される。、 凡夫の信心が仏智の一念に合致すれば決定往生疑いないものであり、一念の他に更に多念を必要としないというのが幸西の考えであるが、 誤解されると低劣な方向に堕落していく危険性を含んでいる。それ故、宗祖は度々訓戒を与えたが承諾はしなかった。しかし、 建永元年(1206)に一念義の行空が十戒毀犯の業を勧めた罪を興福寺に問われ、仕方なく宗祖は幸西を破門にしたという経緯がある。
 一念義は先に述べたとおり誤解される面もあったが、多念相続を否定するが故に、特に在家庶民には受け入れられていたようである。
 幸西の弟子は、薩生、聖達、そして時宗を開いた一遍へと続いている。

(系譜) 幸西 ┬ 薩生 ─ 聖達 ─ 一遍
        │ *後に証空に帰す    
        ├ 入真 ─ 傾心  
        ├ 明信 ┌ 永信  
        ├ 善性 ┴ 仙才  
        ├ 勧信    
        └ 了智 ─ 了教  

 『京師和尚類聚伝』一巻
 『玄義分抄』一巻
  
 
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長楽房隆寛
(1148-1227)

 藤原資隆の三男に生まれ、比叡山へ登った後に、叔父皇円につき、範源法印に受法し、慈円の門弟となった。天台の学問に深く、 あわせて浄土宗を学び、元久元年には宗祖より『選択集』を付属されている。
 隆寛の教義は、平素多念の念仏を集積した功によって、臨終に業成し断証して往生するというものである。 多念が強調されるため多念義と称せられる。また、居所によって長楽寺流ともいわれている。
 嘉永2年に、並榎の定照の『弾選択』を『顕選択』にて論破したことから嘉禄の法難が起こり、陸奥に配流された。実際には、 隆寛は80歳に達していたため、陸奥へは門弟の実成房が赴き、隆寛は相模国飯山に移った。弟子たちが憂慮したとおり、  隆寛はその年の10月に入寂した。 隆寛の墓は現在、飯山の光福寺にあり、山門前には「浄土宗多念義派本山」 と刻まれた石柱が立てられている。
 門弟には、智慶、敬西(信瑞)、願行、敬日等がおり、智慶は関東出身で鎌倉に長楽寺を開き、願行は鎌倉に理智寺を開いたり、 名越安養院を開創し、常州に赴いている。

(系譜) 隆寛 ┬ 智慶 ─ 隆慶 ┬ 信教 ─ 寛海 ─ 理観    
        ├ 敬西   └ 能念 ─ 観念 ─ 本覚 ─ 観覚 ─ 覚玄
        ├ 願行            
        ├ 圓満            
        ├ 信瑞            
        ├ 信楽            
        ├ 了圓 ─ 如阿          
        └ 敬日 ─ 慈信 ─ 道圓        

 『顕選択』
 『一念多念分別事』一巻
 『具三心義』二巻
 『散善義問答』若干巻
 『極楽浄土宗義』二巻
 
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善恵房証空
(1177-1247) 


 証空は加賀権守親秀の長男として生まれ、久我内大臣通親の養子として育てられた。宗祖の門下となったのは建久元年(1190)であり、 宗祖入寂後は居を小坂から慈円に譲られた西山往生院(現、三鈷寺)に移り、著述、講義、教化に勤めた。また、 天台の願蓮について天台学を学んだともいわれている。
 証空の教義は、宗祖の廃捨した定散の諸善が弥陀名号の功徳であり、 定散諸善を総括して弘願に帰入する弘願一行の念仏で往生を得るという考えである。その本所によって、小坂義とも西山義とも呼ばれる。 定散諸善行を否定せずに観経を重用したため、伝統的な天台浄土教の影響下にあった貴族階級へ受け入れられ、 多の門流より貴族的となっていった。それ故、専修念仏弾圧の手も証空およびその一門には及ばなかったのである。
 門弟には、俊才が多いことで知られており、一番賑わった浄音(西谷流)、証恵(嵯峨流)、円空(深草流)、証入(東山流)の4流に、了音 (六角義)と示導(三鈷寺本山義)の2流を加えて、西山六流と呼ぶ。
 幾多の変遷を経て、現在は、西山義の西山浄土宗(粟生野光明寺)、浄土宗西山禅林寺派(禅林寺永観堂)、そして深草義の浄土宗西山深草派 (誓願寺)の3派となっている。
(系譜) 証空 ┬ 証恵 (嵯峨流) ┬ 円道  
        │   └ 覚道  
        ├ 円空 (深草流) ─ 顕意  
        │ 浄音 (西谷流) ┬ 観智 ─ 行観
        │   └ 了音 (六角義) 
        ├ 証入 (東山流) ┬ 覚入  
        │   ├ 智道  
        │   ├ 証仏  
        │   └ 観日  
        ├ 遊観  ─ 玄観 ─ 示導(本山義)
        └ 薩生  ─ 聖達 ─ 智真(一遍)
                     * 時宗を開く
 
 『観経疏他筆抄』十四巻
 『観経疏観門義』二十一巻
 『観経疏大意』一巻
 『往生礼讃観門義』十巻
 『当麻曼荼羅註記』十巻
 
 
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覚明房長西
(1184-1266) 

 讃岐国西三谷に生まれ、建久3年(1192)上洛し、俗典を学んだ。建仁2年に宗祖の弟子となり、 宗祖入寂後は諸学匠について諸宗を学んだ。しばらくは、三谷に戻り浄土の教を説いていたが、再び上洛し、洛北に九品寺を開いて広く講義した。
 長西の教義は、天台の教えの影響を強く受けており、 念仏本願のほかに諸行もまた本願であるため所修の業によって皆報土に生まれるという考えである。 諸行をも本願とするといった考えから諸行本願義、もしくは本所によって九品寺流とも称された。
 門弟には、澄空、道教、阿弥陀、空寂等がおり、道教は関東で、空寂は甲州で教えを広め、阿弥陀は十六定善義を立てた。また、 凝然も長西から講説を受けたといわれている。
(系譜) 長西 ┬ 澄空        
        ├ 道教 ─ 性仙 ─ 蓮証    
        ├ 証忍 ┬ 西覚      
        ├ 覚心 ┴ 覚阿 ─ 欣忍    
        ├ 阿弥陀 ─ 禅心      
        └ 空寂        
     
 『選択集名体決』一巻
 『念仏本願義』一巻
 『観経疏光明抄』十八巻
 『浄土依憑経論章疏目録(長西録)』
 
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 また、これら5流の他にも多くのお弟子たちがいた。すべてを網羅することは難しいため、代表的なお弟子のみを挙げてみます。

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法蓮房信空
(1146-1228) 

 信空(白河門徒)は久安2年(1146)に生れ、保元2二年11才の時叡空の室に入って剃髪し、25才の法然上人とは法兄弟となり、 いつしか師弟の契を結び、以来上人に常随、67才で上人と死別し、安貞2年(1228)9月に83三才で寂した。
 信空は法然上人に56年の長きにわたって随従した最高足であったが、幸西や隆寛のように積極的な教化者でなく、かつ高齢でもあったのため、 教団の指導権は他に譲らざるを得ない状況であった。宗祖とは特別の関係があったため、 信空をもり立てようとする動きが信空派の弟子の間におこってはいるが、その勢力は第三者をして注目さすほどのものまでには至らなかった。 信空は生涯を宗祖への奉仕に尽した人であった。

(系譜) 信空 ┬ 明禅  
           └ 信瑞  

  
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勢観房源智
(1183-1238) 

 出自については諸説あるが、平師盛の子であるという説が有力である。源智(紫野門徒) はその出自を常に秘匿していたところからも想像できるところであり、最初は九条兼実の計らいで、天台座主慈円のもとに預けられた。しかし、 1年もしないうちに政変により九条兼実は失脚し、慈円は天台座主の座を追われることとなったため、宗祖のもとへ帰すこととなった。以来、 源智は正治2年(1200)に感西が寂するまで感西のもとで学び、以後は宗祖の秘書的な役割を務めながら教学を学んだ。
 それ故に、教義の弘通などには消極的であったと考えられていたが、 昭和49年(1974)に滋賀県信楽町の玉桂寺(真言宗)より発見された阿弥陀像とその体内に修められていた源智書の「敬白書 (阿弥陀像造立願文)」と「結縁交名録」により、その評価は一変した。
 建暦2年(1212)に奉納されたこの阿弥陀像の願文の内容は、 海よりも深く山よりも高い宗祖の恩徳に対する感謝と同時に収めた数万人の姓名もまた宗祖の導きを受けられるよう願う、といったものである。 「結縁交名録」には、源平の名だたる武士たちや、名のみの者たちなど、近畿から中国、東海、北陸、越中、東北、蝦夷にまで及んでいる。 源智ひとりではなく、源智の呼びかけで多くの者たちが動いたのであろうと思われるが、これだけの機動力を教団が持っていたことは驚きであり、 それを動かした源智の指導力もあったということは驚くべきことである。

(系譜) 源智 ─ 蓮寂 ─ 道意

 
  
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真観房感西
(1153-1200)  

  
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禅勝房
(1174-1258)  
  
  
湛空  
  

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親鸞 

 親鸞のお弟子たちは10数名いたが、なかでも顕智より続く門派は、安土・桃山時代の蓮如(本願寺中興)、実如、教如の時代へと続く。

(系譜) 親鸞 ┬ 顕智 ─ 如信 ─ 覚如 ─ 慈俊 ─ 善如 ─ 綽如 ─ 巧如  
        ├ 如覚              
        └ 源海

2003年04月01日

●浄土宗の総大本山

 今回は、浄土宗寺院における総大本山のご紹介をします。このうちのいくつかの寺院つきましては、私も訪れたことがあります。
 
 
■ 総本山 ■

 
知恩院(ちおんいん)
 〒605 京都市東山区林下町400
 電話075-531-2111(代表)
 http://www.chion-in.or.jp/

 知恩院は浄土宗の開祖法然上人が30有余年にわたって念仏の教えを説かれた京都東山の地「吉水の草庵」に始まります。
 法然上人滅後23年、文暦2年弟子の勢観房源智上人が報恩のために伽藍を建立し、四条天皇より「華頂山知恩教院大谷寺」の寺号を賜り、 法然上人の御廟、念仏の根本道場の基礎を築きました。
 現在の寺観は江戸時代になって、浄土宗の教えに帰依した徳川家によって整えられたもので、大小106棟の建物からなっています。 室町時代にかかる諸堂最古の勢至堂や、日本現存の木造建築の門の中で最大の規模をもつ三門をはじめ、経蔵、御影堂、大方丈、小方丈、勅使門、 大鐘楼、集会堂、大庫裡・小庫裡などはいずれも重要文化財となっています。
 
 
■ 大本山 ■


増上寺(ぞうじょうじ)
 〒105 東京都港区芝公園4丁目7-35
 電話03-3432-1431(代表)
 http://www.zojoji.or.jp/

 浄土宗の七大本山の一つ。三縁山広度院増上寺(さんえんざんこうどいんぞうじょうじ)が正式の呼称です。開山は酉誉聖聡上人で、 江戸時代の初め源誉存応上人が徳川家康の帰依を受け、大伽藍が造営されました。以後、徳川家の菩提寺として、 また関東十八檀林の筆頭として興隆しました。さらに、江戸時代総録所として浄土宗の統制機関ともなっておりました。
 戦災によって徳川家の将軍やその一族の御廟(ごびょう)は焼失した。焼失をのがれた三門・経蔵・御成門などを含む境内は、 昭和四十九年完成の大本堂とともに、近代的に整備されております。


金戒光明寺【黒谷】 (こんかいこうみょうじ)
 〒606 京都市左京区黒谷町121
 電話075-771-2204(代表)
 http://www.kurodani.jp/

 浄土宗七大本山の一つ。 山号は紫雲山(しうんざん)といい、黒谷とも呼ばれています。 法然上人が師叡空上人から譲り受けた地とされ、その後信空上人とその弟子に引き継がれ伽藍を整えました。 室町末期の応仁の乱によって焼失しましたが、 ときの権力者信長、秀吉らの庇護を受け、江戸時代になると、徳川家の援助を得て復興しました。
  江戸時代には浄土宗四箇本山の一つとして君臨し、明治維新後衰退しましたが、昭和になり着々境内伽藍が整備されました。


知恩寺【百万遍】(ちおんじ)
 〒606 京都市左京区田中門前103
 電話075-781-9171(代表)
 http://www.jodo.jp/290004/03/

 浄土宗七大本山の一つ。長徳山功徳院(ちょうとくざんくどくいん)と号し、百万遍(ひゃくまんべん)と通称します。 知恩寺と称される以前は加茂の河原屋などといわれたこともあり、法然上人の弟子源智上人が興隆しました。後醍醐天皇の代、 七日間の百万遍念仏を厳修して、疫病をとどめたため、百万遍の寺号を賜わり、そのため、通称百万遍知恩寺、略して百山 (ひゃくさん)と呼ばれており、大数珠繰が有名です。また、重要文化財も多く存在しています。


清浄華院(しょうじょうけいん)
 〒602 京都市上京区寺町広小路上ル北丿辺町395
 電話075-231-2550(代表)
 http://www6.ocn.ne.jp/~jozan/

 浄土宗の七大本山の一つ。清和天皇の叡願(えいがん)により貞観二年頃、京都御所の構内に建造され、 御祈願などの清浄の業を精勤したといわれています。高倉天皇の代、 法然上人に勅授され浄土宗の寺院として発展しました。天正年中に至り、 豊臣秀吉によって御所内から現在の寺町に移されました。明治維新後も数人の皇族の位牌を供養していたため、 陵墓は宮内省の所管となっていました。
 略称は浄山(じょうざん)、呼び名も普通「じょうけいん」といいます。


善導寺(ぜんどうじ)
 〒839-11 福岡県久留米市善導寺町飯田550
 電話0942-47-1006(代表)
 http://www5.ocn.ne.jp/~zendoji/frametop.htm

 浄土宗の七大本山の一つ。 井上山光明院善導寺(せいじょうざんこうみょういんぜんどうじ)として九州の浄土宗の根本道場となっています。 開山は浄土宗の二祖聖光房弁阿弁長上人で、九州を遊行中に、仏法有縁の所としてこの地に一宇を建立したといわれています。 寺名は元井上山光明寺でしたが弁長上人が善導大師像を奉安して後は善導寺と称されるようになりました。
 九州鎮西の地の浄土宗の根本道場として長い年月興廃を繰り返し、現在天明六年建立の本堂をはじめとして伽藍が整備されています。


光明寺(こうみょうじ)
 〒248 神奈川県鎌倉市材木座6-17-19
 電話0467-22-0603(代表)
 http://park16.wakwak.com/~komyo-ji/

 浄土宗の七大本山の一つ。 天照山蓮華院光明寺(てんしょうざんれんげいんこうみょうじ)として江戸時代に関東十八檀林の一つに数えられています。 浄土宗の三祖然阿良忠記主禅師上人が鎌倉に移住し、悟真寺に入りましたが、その寺が蓮華寺と改名され、 九世祐崇上人のとき光明寺として現在の地に移転したと伝えられています。 明応四年、後土御門天皇から綸旨を賜わり勅願所となりました。 慶長年間頃は関東本山として発展しました。
 光明寺で毎秋行われる十夜法要は、浄土宗の十夜法要の起源とされています。


善光寺大本願(ぜんこうじだいほんがん)
 〒380 長野県長野市元善町500
 電話0262-34-0188(代表)
 http://www.daihongan.or.jp/

 浄土宗の七大本山の一つで、定額山善光寺(じょうがくさんぜんこうじ)と称します。 善光寺は現在浄土宗大本山大本願と天台宗大本山大勧進の二つの機構によって運営されており、両本坊の住職が善光寺住職となっています。 大本願は代々皇族の尼公上人が法灯を継がれている。
 善光寺の創建は奈良時代頃まで溯れると推定されますが、以来、一光三尊本尊の阿弥陀如来は人々の信仰を集め、 江戸時代には出開帳も多く行われました。現本堂は宝永四年の建立で国宝となっています。

 
■ 本山 ■


蓮華寺(れんげじ)
 〒521 滋賀県坂田郡米原町番場511
 電話0749-54-0980(代表)
 http://www.pref.shiga.jp/minwa/42/42-09.html

 北条仲時の一行432名が眠る寺として有名なこの寺は、聖徳太子の創建と伝わる寺であり、もとは法隆寺と称していました。 鎌倉中期に雷火により焼失しましたが、その後、一向宗の始祖である一向上人が再興。寺名を蓮華寺にしたといわれています。
 本堂の右手奥には北条仲時一行の墓がずらりと並んでいます。元弘3年、後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒の兵に追われた六波羅探題の仲時は、 この馬場の地で手兵432名とともに自刃し、当時の住職が弔いました。寺には、戦死者の名を記した過去帳「陸波羅(ろくはら)南北過去帳」 があります。ほかにも、弘安7年在銘の梵鐘、一向上人像など、寺宝も多く残されています。
 また、境内には、番場の名を有名にした長谷川伸の名作『瞼の母』の主人公、番場の忠太郎ゆかりの忠太郎地蔵もあります。
 
 
■ 特別寺院 ■


誕生寺(たんじょうじ)
 〒709-36 岡山県久米郡久米南町誕生寺808
 電話08672-8-2102(代表)
 http://www.d3.dion.ne.jp/~tanjoji/index.htm

 誕生寺は、浄土宗他力念仏門の開祖、法然上人降誕の聖地であり、建久四年に法力房蓮生(熊谷直実)上人が、 師法然上人の命を奉じこの地に来て、上人誕生の旧邸を寺院に改めたものです。
 本堂須弥壇の位置は上人誕生の室のあった所と伝えられています。。
 爾来八百五十年の星霜を経て法灯絶えることなく全浄土教徒の魂の故郷と敬仰されており、法然上人(圓光大師) 二十五霊場の第一番となっています。
 境内には、誕生椋、片目川、産湯の井戸など、永き歴史を物語るものや、 熊谷蓮生法師が京より持参した法然上人御自作の浄土開宗四十三歳念仏体得歓喜の姿の御本尊円光大師(法然上人像)像があります。


光照院門跡(こうしょういんもんぜき)
 〒602 京都市上京区新町通上立売上ル安楽小路町425
 電話075-441-2254(代表)
 http://subaru-world.com/subaru2/nogaku/koshoin.htm

 延文元年、後伏見天皇の皇女進子内親王が出家され、自本覚公宮と改められ、室町通一条北に天台、浄土、禅、 律の四宗兼学道場として創建されたのが起こりと伝えられる浄土宗の尼門跡寺院です。
 その後、焼亡し応仁以後にもと持明院仙洞御所のあった現在地に再建されました。開山以来、代々皇女が入寺され、 寛政元年に光格天皇により常盤御所の号を賜わりました。
 歴代門跡は、華道に通じ当寺を家元とする「華道常盤未生流」が生まれています。


得浄明院(とくじょうみょういん)
 〒605 京都市東山区林下町459
 電話075-561-3767(代表)
 http://www001.upp.so-net.ne.jp/miyabimemo/50_naiyo/tokujyomyoin.html

 東山の知恩院に隣し、信州善光寺大本願の京都別院の尼寺として、明治二十七年に建立されました。 開山は信州善光寺大本願第百十七世誓圓尼公(伏見宮邦家新皇第三王女)で、その大部分の寺域を令兄久邇宮朝彦親王の配慮に依っています。
 戒壇巡りとは一光三尊像を安置してある台座のことで、真実至誠の心を捧げ戒壇を巡れば、即ち功徳を得ることうたがいなしといわれています。


三時知恩寺(さんじちおんじ)
 〒602 京都市上京区新町通上立売南入ル
 電話075-451-2211(代表)
 http://www.ne.jp/asahi/hiro/papa/sanjichionji.htm

 入江御所とも呼ばれる浄土宗の尼門跡寺院です。建物は天明の大火で焼失し、桃園天皇皇女「恭礼門院」 の旧殿を移し再建されたと伝えられています。寺号の由来は「知恩寺」と号していましたが、 昼の三時の勤行を当寺で修するように定められてから「三時知恩寺」改めたと伝えられています。本尊は「阿弥陀如来像」で、本堂には唐伝来の 「宮導大師像」が安置されています。
 
 

 
 以上、簡単ですが総大本山及び特別寺院のご紹介をさせていただきました。参拝等につきましては、 事前に該当寺院にお問い合わせいただいてからがよろしいかと思います。

2002年08月01日

●「一枚起請文」のこころ

 今回は、法然上人による「一枚起請文」についてお話ししていきたいと思います。先ずは原文をお読みください。
 
「一枚起請文」(原文)

 唐土我が朝に諸々の知者たちの沙汰し申さるる観念の念仏にも非ず。 また学問をして 念の心を悟りて申す念仏にも非ず。ただ往生極楽の為には南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思いとりて申すほかには、 別の子細候わず。但し三心四修と申すことの候は、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと、思ううちにこもり候也。 此外に奥深きことを存ぜば、二尊のあわれみにはずれ、本願にもれ候べし。念仏を信ぜん人はたとい一代の法をよくゝ学すとも、 一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智の輩に同じうして、智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。
 証のために両手印をもってす。
 浄土宗の安心起行此一紙に至極せり。源空が所存此外に全く別儀を存ぜず。滅後の邪義を防がんがために所存を記し畢。

   建暦二年正月二十三日      大師在御判
 
 
 この「一枚起請文」というわずか十数行の文は、法然上人が亡くなる二日前に、 上人の身の回りの世話をしていた弟子の一人である勢観房源智の求めに応じて書かれたものであり、浄土宗の教えの本質は何であるのか、 つまり念仏の教えの肝要を示され、仏に誓いをたてられた(起請)文です。また、上人亡き後の浄土宗教団はどうしていけばよいのか、 などが盛り込まれています。
 当寺の法要中はもとより、僧俗共々に広く称えられている文となっています。なかでも特に大切な部分は 「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」という一節であり、浄土宗一宗の教えがここにすべて集約されています。 詳しくは後述の現代訳をお読みいただければと思いますが、「念仏を称えれば必ず救摂する」という阿弥陀仏の言葉を信じ、あれこれ言わず、 能書きも付けないでただただ念仏を称えなさい、ということが浄土宗の本質、もしくは根源と言えるところなのです。
 法然上人ご真筆の原本は浄土宗大本山黒谷金戒光明寺に伝えられています。
 参考までに訳文を以下にあげておきます。

「一枚起請文」(訳文)

 私(法然上人)の説いてきたお念仏は、中国や日本で、 み仏の教えを学び究められたといわれるような智者たちが、これまで種々に論議をされてきた、 心を静めて真理そのものやみ仏のお姿やその浄土の荘厳を思い描く観察によをお念仏ではありません。また、み仏の教えを学び、 お念仏の意味を心得てみ仏のお名前を称えるといったお念仏でもありません。阿弥陀仏の極楽浄土へ往生するために、ただひたすら「 『南無阿弥陀仏』と称え、一点の疑いもなく「必ずや極楽浄土に往生させていただくのだ」と確信して称える以外、とりたてて作法はないのです。 けれども、極楽往生を目指す衆生が心に具えるべき三心や日々の生活の中で念仏行者が振る舞う威儀としての四修というものは、悉くすべて、 必ずやただひたすら「『南無阿弥陀仏』とお念仏を称えて往生させていただけるのだ」と確信してお念仏を  称える衆生の内に、 自ずと具わってゆくのです。もしも私が「これ以外にお念仏の教えには奥深いことがあるのだ」などとわが心に秘めていたならば、 釈尊や阿弥陀仏が私たち衆生を救わんとなされた慈悲のみ心に背き、 私自身が阿弥陀仏のお誓いになられた本願のお救いから漏れ出てしまうことでしょう。

 お念仏のみ教えを信じる者たちは、 たとえ釈尊が一代にお説きになられたみ教えをしっかりと学んだとしても、 自分はその一文さえも理解のおぼつかない愚かで鈍い者であると自省し、ただ頭を丸めただけでみ仏の数えを学ぶこともなく、 俗世間の生活を送っている者と同じ身であると自省し、けっして智慧者のような振る舞いをすることなく、 ただひたすらにお念仏を称えるべきです。

 以上のことを証明し、み仏にお誓いするために私の両手の印を押します。
 浄土宗において、お念仏を称える際の心の持ちようとお念仏をはじめとする行のありかたとが、この一枚の紙にすべて込められています。私、 源空(法然上人)の理解する所は、この他に別の考えがあるわけではまったくありません。私が往生を遂げた後、 誤ったお念仏の見解が噴出することを防ぐために私の理解する所を記し終えました。

  建暦二年正月二十三日       法然上人の御両手印


 
 注釈として三心と四修について説明させていただきますと、「三心」とは、至誠心(嘘偽りの無い真の心)、深心(自身の有り様を自省し、 阿弥陀仏の本願の力による救いを深く信じる心)、そして、回向発願心(阿弥陀仏の浄土へ往生したいと願う心)の三つの心のことを言います。 浄土三部経のひとつ『観無量寿経』には、「三心を具する者は、必ずかの国に生ず」と述べられています。つまり、 三つの心が具わって称える念仏によって往生が叶うと述べられているのです。また、「四修」とは、恭敬修(佛・浄土・菩薩・ 聖典などに対して敬いの心を持つこと)、無余修(念仏以外の諸行を修めないこと)、無間修(時を隔てずに念仏を称えること)、そして、 長時修(念仏の教えに帰依したならば、最期臨終のときまで念仏を怠らないこと)の四つのことを言います。
 三心がこころの持ちよう、つまり信じるこころであるのに対し、四修はわれわれ浄土宗信徒が修めるべき行であると言えます。信行一致、 どちらか一方だけでなく、こころと行いが共に同じ方向へ向けられること、すなわち、阿弥陀仏の本願を信じて念仏を称えること、 これが法然上人が常日頃おっしゃっていたことであり、浄土宗の核心と言えるところなのです。
 

 

 

2001年08月02日

●「焼香の回数、線香の本数」

 お焼香の作法は、右手で一つまみし、これを仰向けて左の掌に受けながらいだいて、静かに火にくべます。 正式には三回(三本)とよく言われています。

一回目は一心不乱の心、
二回目は教え(戒)と静けさ(定)の香を焚いて供養する、
そして三回目はむさぼり(貪)と怒り(瞋)とおろかさ(痴)といった三つの煩悩を焼き尽くす意味と言われています。
また、地方によっては、一回目は故人の供養のため、二回目は自分のため、そして三回目はその他有縁無縁の者たちのため、とも言われています。

 線香の場合も同様ですが、大勢の参列者がいて、線香台が小さいのに三本づつあげていたら、 あっという間に線香だらけになってしまいますし、焼香の場合ですと時間も掛かってしまいます。こんなときは、 心をこめて一本(一回)おこなえば良いのです。正式には三本(三回)であっても、状況に応じて、心をこめての一本(一回)で構いません。

 言うまでもないと思いますが、三本(三回)したのだから心をこめなくてもいいというものではありません。何事にも言えることですが、 形ばかりにとらわれて、本来の目的である故人への回向・供養を二の次にしてはいけないということです。


 

2001年07月31日

●「数珠と合掌」

   「数珠」について

 浄土宗では、数珠は二連となっているものを使用します。同じ大きさの珠が並んでいる一の環と、大小二つの珠が交互に並んで二の環、 更に丸い珠のついている一の房、円盤状の珠がついている二の房、このような数珠を使用します。これら二つの環と二つの房は、 お念仏を唱える際にその数を数えるために使われます。一の環ひと回りでお念仏が三十九遍、この際に二の環の珠をひとつ、そして、 二の環がひと回りしたら、一の房の珠ををひとつ、更に一の房がひと回りしたら二の房の珠をひとつ。こういったふうに数えていきますと、 合計で六万遍のお念仏を唱えたことになります。

 右写真の数珠は六万遍と呼ばれる数珠ですが、参考までに挙げますと、その珠や環の大きさや数によって、三万遍、三万五千遍、 更には京都の知恩寺にある百万遍と呼ばれる一つの珠がソフトボールくらいある数珠もあります。

 数珠の持ち方、かけ方、合掌の仕方は図のように、合わせた両手の両親指に二連を掛け、手前に垂らします。このとき、 指はまっすぐに伸ばし、ぴったりとつけます。右手が仏さま、左手が自分であり、両者がとけあい、 仏さまにいだかれて安心して生きていくことができるというわけです。

   「合掌」のしかた

 また、合掌の際に珠同士を擦り合わせてジャラジャラと鳴らす方をよくお見かけしますが、少なくとも浄土宗においてですが、 これは避けるようにしましょう。ジャラジャラという音がみっともないとか、やかましいとかいう意見もありますが、 浄土宗の本質で言いますと阿弥陀さまの光はすべてのところに届いていて、常にわれわれのことを見ていてくださるのです。ですから、 「南無阿弥陀仏」と称えるだけで阿弥陀さまはもうその願いを聞き、救ってくださるわけです。 敢えて音を立てて自分の方を振り向かせる必要は無いということなのです。「月影の至らぬ里はなかりけり・・・」という歌がありますが、 阿弥陀さまの光は月のあかりと同じくすべての場所を分け隔てなく照らしているのです。法要の際、お念仏を称える直前に、 「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」と必ず称えますが、この意味は、如来(阿弥陀さま)の光は、あまねく十方(すべての) の世界を照らし、念仏の衆生(念仏を称える人々)を捨て給わず(捨て去ることはない、つまり必ずその願いを聞きとどけてくれる) という意味です。まさに浄土宗の本義です。ですから、お念仏をしましょう、阿弥陀さまにお願いしましょう、ということになるわけです。

 お仏壇やお墓にてお参りする際にも、こういったことを踏まえてお念仏をお称えするように心がけましょう。
 

 

2001年07月20日

●「『南無阿弥陀仏』とは?」

 浄土宗では、通夜式、葬儀式、初七日、四十九日、1周忌、三回忌・・・、お彼岸、お盆、お施餓鬼など供養する際に、「南無阿弥陀仏」 と称えます。この「南無阿弥陀仏」というお念仏にどういう意味があるのかということについてお話させていただきます。 通夜式の際にお話させていただくこととほぼ同じ内容のことですが、いま一度おつきあい下さい。
 
 
  「南無阿弥陀仏」について

 「南無阿弥陀仏」とは、その文字通りに見ますと、「阿弥陀さまに南無する」ということです。それでは、「南無する」 とはどういうことなのでしょうか?辞書等をみますと、「南無」とは「帰依する、心の拠り所とする」といった意味があります。つまり、 阿弥陀さまを頼りにする、ということなのです。

 ところで、いったい何について阿弥陀さまを頼るのでしょうか?何をお願いするのでしょうか?  阿弥陀さまのお造りになった西方極楽浄土の世界に、故人が往生できるように、 そしてそこで健やかに暮らしていくことができるようお願いするのです。往生という言葉を考えますと、よく「立ち往生」 などという言葉を思い浮かべ、困ってしまうなどのあまり喜ばしくない場面で使われますが、本来は、「往」 という字には往復という言葉のように「行く」という意味があります。西方極楽浄土の世界に行って、そこに生まれる、暮らしていく、 という意味なのです。ある有名な法師の言葉に、「人は死して、消えて無くなるわけではない、浄土に生まれ変わるだけのことなのだ」 とあります。われわれの目の前から存在が消え、記憶までも無くなってしまうわけではない。生活している場所が変わっただけ、 いわば遠くへ引越しただけなのだ、ということなのです。

 こういった思いを込めて、四十九日頃までは「阿弥陀さま、故人を浄土の世界へ導いていただきありがとうございます。」と、 年回忌には「故人は浄土の世界で健やかに暮らしていますか?何か困っていたりしたら、助けてあげてください。 私たちも元気に過ごしております。心配しないようにお伝え下さい。」といった思いを込め、「南無阿弥陀仏」 とお念仏されるようお願いいたします。
 
 
  西方極楽浄土とは

 浄土宗のよりどころとなっている三つのお経として「無量寿経」「観無量寿経」そして「阿弥陀経」があります。このうち、 当寺で専ら通夜式と葬儀式にて読経させていただいています「阿弥陀経」こそが、 阿弥陀さまがおつくりになった西方浄土の世界はどういう世界なのか、ということが述べられているお経です。

 この経典は前後巻の二巻で構成されています。前巻では、空には様々な鳥たちが飛びかい、雅やかな鳴き声で奏でており、 地面は金銀の砂で覆われ、池には車輪のような大きな蓮の華が青白黄赤にひかり輝き、建物は金銀瑠璃玻璃などの様々な宝石で造られていて、 まばゆいばかりのすばらしい世界である、と述べられています。勘違いされてはいけないのですが、これだけを聞くと、 成金趣味のこれ見よがしな毒々しい世界なのかとも考えてしまうかもしれませんが、 現実世界での表現をとったためこのような言い方になっただけなのです。とにかく、すばらしい世界であるということを述べているのです。

 後巻は六方段、若しくは護念経とも呼ばれており、東南西北の四方と上下の二方を合わせ、六方、 すなわちあらゆるところに多くの仏さまたちが住んでいて、その仏さまたちが皆、この浄土は素晴らしい世界であると述べています。 その仏さまたちの数はガンジス河の砂の粒の数ほどで、広さは三千世界の彼方まであるとも述べられています。

 つまり、浄土の世界とは仏さまの清らかな慈悲の光が満ちあふれ、美しい花が咲き匂っているところなのです。 私たちだれでも心に持っている金欲、物欲、名誉欲など様々な俗世の欲望をきれいに捨て去った世界なのです。いがみあいやそしりなどがなく、 みんながお互いに助けあって平和に健やかに暮らしていける世界、これが浄土の世界なのです。
 


 

2000年07月27日

●「お盆・お施餓鬼の心構えと本質」その2

 前回(7/20)に続き、今回はお施餓鬼会についてお話しましょう。


  お施餓鬼会

 お盆と共に夏の行事の一つとなっているものがお施餓鬼会です。本来はこのお施餓鬼会(施食)はお盆とは別の行事です。 都心部では五月の連休中に行われている地域もありますが、大半の地域ではお盆の期間に行われることが多いようです。
 仏教界でいう餓鬼世界は飢えの世界で、食物があっても食べることができない世界です。 食べても喉がハリのように細いので飲み込むことができなかったり、食べようとして手にすると、烈火のごとく燃えつきてしまいます。
 このような餓鬼に飲食(おんじき)の施しをして救い出すのがお施餓鬼の意味です。 この功徳はとても大きく功労者の寿命も延びるとされています。ご先祖様の供養にこれほどよい行事はありません。お施餓鬼の行事、 作法がご先祖さまの霊を迎えるお盆の行事と同時に行われるようになったのもこういった理由があるからなのです。
 また、お盆の精霊棚には、各家のご先祖さまだけでなく、有縁無縁の餓鬼を救うという意味もあるのです。
 自分の家のことだけでなく、ほかの有縁無縁のものたちをも供養するといったおおらかさ、 こころの広さがご先祖様の一番の供養へとつながるのであると考えるようにしましょう。


  塔婆供養のすすめ

 塔婆、すなわち卒塔婆のはじまりは、古代インドの土まんじゅうに盛り上げた墓のことをいいます。中国においても、日本においても、 塔は重要なものとして必ずと言っていいほど境内に建立されています。
 今日、一般に用いられる塔婆は、さまざまな仏塔のなかでも五重塔を模しています。板塔婆の上部の切り込みを見ると、 五重塔を小型化したものであることがわかると思います。また、日本では塔婆は年回忌の追善供養、彼岸会、盂蘭盆会、 施餓鬼会などの折りに建てます。
 仏典にも「塔を建てて供養すべし」とあります。塔婆供養は今生にある私たちの最大の善行と言えるでしょう。 塔婆の建立は浄土にいるご先祖さまや父母への報恩感謝の気持ちを形に表すことであり、その功徳ははかり知れないほど大きいとされています。
 塔婆は、手紙のようなものと考えたらいかがでしょうか。私たちは日々の生活に追われ、ご先祖さまや父母の追善供養を怠りがちです。 ご先祖さまたちに、「私たちは元気にやっていますよ」とか、「心配しないで浄土で健やかに過ごして下さい」 などの意味を持った手紙を出してみたらいかがでしょうか。


 

2000年07月24日

●「精霊棚(盆棚)」

 亡くなったご先祖さまを我が家に迎えるにあたり、故人の好物や季節の野菜、果物を使って馬や牛の形を作り、お迎え、 お送りをするしきたりとして飾ります。
 たとえば、遠方からお客さんが訪ねてくるとわかれば、たいていは部屋を掃除し、 その人の好きなご馳走を用意してお迎えしますね。お盆は一年に一度、遠い所から故人が訪ねて来る日です。 訪れてきた故人がゆったりとお休みになれるよう、部屋を用意しご馳走をどうぞ、というのが精霊棚を作る理由です。  仏壇が一般家庭に備えられるようになったのは江戸時代になってからであり、それ以前はご先祖さまの霊を迎えるために、その都度、 棚を作っていたようです。精霊棚はその名残と言えるでしょう。 ナスやキュウリで作った牛や馬といった動物は訪れてくるご先祖さまの乗り物とされており、ご先祖さまに楽をしていただこう、 という昔の人々の優しい心の現れと言えるでしょう。

 しかし、現代の住まいの事情を考えますと、しきたり通りに精霊棚をしつらえるのは難しい場合があります。そういった場合は、仏壇、 若しくはその周りに故人の好きであった果物や野菜などをお供えするのがよろしいかと思います。

 

 

1998年08月17日

●「お盆・お施餓鬼の心構えと本質」

 日増しに暑さが加わって参りました。お檀家の方々には、お元気でいらっしゃると思います。本年度は原点に立ち返り、 お盆とは何なのか?お施餓鬼会とは何をしたら良いのか?ということについて少々お話しさせていただきます。

 平成十年度の施餓鬼法要前にお話しさせていただいた生活上の実例を挙げてではなく、本来のお盆・ お施餓鬼会の意義に沿って進めさせていただきます。


   お盆の意味

 今年もお盆の季節がやってきました。真夏の暑い日に、亡き人が我が家を訪れる。仏様の里帰りの日です。 お盆の語源はウラバンナというサンスクリット語です。漢字にしますと盂蘭盆、それを縮めてお盆となったのです。
 お盆の供養は餓鬼道(後述)におちているかもしれない先祖の供養のためともされています。

 お釈迦さまの十大弟子のひとりである目連さんの母親もそんな世界で苦しんでいました。目連さんは、餓鬼道で苦しむ母親を救うため、 お釈迦さまの教えに従い、十方の僧たちを招いて供養したのです。その結果、母親は餓鬼道から救われたとされています。 その母親を思う孝養の心が今日まで伝わり、現在の盆行事となっているのです。 欲しい欲しいという欲望の世界はこの現実世界であり、 満足することを知らない心、施すことを知らない心、私たち自身が餓鬼道におちることがないように、心して生きよ、 とお盆行事は教えていると言えます。


   お盆のあゆみ

 日本のお盆が初めて営まれるようになったのは、日本書紀によると、推古天皇の時代からからとなります。
平安中期になると、「蜻蛉日記」、「枕草子」にも盆行事が記され、「今昔物語」にも紹介されています。鎌倉時代になると、「吾妻鏡」、 「明月記」にも記され、室町時代になり、盆踊りによる供養が行われ始めたようです。また、 施餓鬼会もこの頃から広く行われるようになったようです。


   お盆の期間

 全国的には八月の中頃が多いようです。もちろん、当寺のある熊谷もこの時期に行っています。しかし、都心の一部では七月の中旬、 また地域によっては八月の下旬や九月になってから、というところもあるようです。
 経典からしますと、七月に行われる行事ですが、この七月は旧暦の七月でして、新暦に直せば八月ということになります。 このように月日がまちまちになったのは、収穫期やその地域の事情によるためのようです。
 古来より、お盆は正月と共に日本の二大行事とされ、盆正月と呼ばれるほど我が国の重要な国民的行事として今日まで伝承され、 今なお各地で盛んに行われています。
 私たちを養い育ててくれた両親や、ご先祖様へ感謝する日でもあるわけです。


   お盆を迎えるにあたって

 前年のお盆以後に亡くなった人の霊を初めて迎えるお盆のことを新盆(にいぼん、あらぼん)、若しくは初盆(はつぼん)といいます。 新盆は普段のお盆よりお供えを盛大にしたり、親戚や個人と親しかった人が提燈や燈籠を贈るならわしがあるところもあるようです。

 また、当寺では八月十三日から十四日までの二日間に渡り、お棚経にお伺いできるよう準備しておりますので、 新盆に限らず通常のお盆のお檀家様もお申し込み下さるようお願いいたします。(時間や人員に限りがありますので、 ご希望のお檀家様はお早めにお申し込み下さい。)
 

 

1998年08月12日

●「お盆・お施餓鬼の由来」

 その昔、お釈迦様の十大弟子の一人に目連という神通第一といわれる人がいました。 彼は自分母親が滅後はきっと極楽浄土で暮らしているだろうと思っていたわけです。ところが、その神通力で母親を捜してみると、 驚いたことに餓鬼の世界で苦しんでいたのです。
 
食べ物を食べようとすると口の中で火になり、水を飲もうとすると、これもまた火になってしまう。目連はこれを見かね、 母親を助けるにはどうしたらよいかをお釈迦様に尋ねたわけです。
 
 お釈迦様がおっしゃるには、この先あるところで修行をしている者たちに施しをしなさい、また今は亡き修行者たちを供養しなさい、 とのことでした。お釈迦様の言われるとおりのことをすると、目連の母親は餓鬼道から救われたのです。

 
 戦中・戦後の混乱期や、それ以前の時代われわれ、またはわれわれの先祖代々は、飢饉や干ばつなどの食糧不足という、 まさに餓鬼道と似たような世界を経験しているはずです。ですから餓鬼に苦しむ亡者たちの苦しみも理解できるはずです。
 
 お盆には先祖代々の霊の供養と併せ、飢え苦しむものたちに施す慈悲の心を備えていくことが大切なのです。