2012年09月12日

●「勝尾寺」

この勝尾寺は大阪府箕面市にある高野山真言宗の寺院であり、西国三十三箇所の第二十三番札所となっています。
勝尾寺という寺名の由来は、清和天皇の玉体安隠を祈って効験があったことから、「王に勝った寺」の意で「勝王寺」の寺号を帝より賜ったが、「王」とは畏れ多いと考え「王」を「尾」にひかえ、勝尾寺と号し、勝運の寺として信仰されて来ました。
山の最上に位置する二階堂は、法然上人が讃岐からの帰途、証如上人(勝尾寺第4代座主)の遺徳をしのび4年間留錫され念佛三昧の行に入られたお堂であり、承元4年(1210)三月に、善導大師夢定御会見の奇瑞を得られたところです。
本尊はその折の両祖対面の尊影を映した壁板であって、念仏三昧すれば善導大師の御影を拝することが出来ると言われており、円光大師(法然上人)二十五霊場の第5番となっています。

この勝尾寺はその後、多くの寺院と同じく幾多の火災に見舞われましたが、建久6年(1195)源頼朝の命により、梶原景時、熊谷直実らが力をつくして再建したとされており、その供養塔及び頼朝再建の薬師堂は当山最古の建造物として今に残っています。

20120905 写真の供養塔は、蓮生法師の供養塔ですが、熊谷蓮生法師は遅くとも建久4年には出家し、建久6年2月には嫡男直家に家督を相続させており(『熊谷置文』)、同年8月には頼朝に招かれ鎌倉にて仏法・兵法について自らの考えを述べています。
それらから考えるに、一説では、”蓮生”は”蓮生”でも、熊谷蓮生(れんせい)ではなくて宇都宮蓮生(れんしょう)であったのではとも考えられています。実際、年代的には宇都宮蓮生頼綱のほうが合致しますし、後に法然上人の遺骸の移動を警護したという事実などからも有力な説と言えるかと思います。

2009年09月20日

●「讃岐の蓮生法師」

 建永2年(1207)、法然上人は弟子住蓮・安楽の死罪に伴い、四国高松へと配流されたことはご存じの方も多いことと思いますが、その後を追って、蓮生法師も四国へと渡ったということは初めてお聞きになる方も多いでしょう。ましてや、そこで浄土へと往生されたという伝承も残っております。

 9月7、8日の2日間、増上寺布教師会の研修で瀬戸内の塩飽本島、四国香川県を訪れました。そこに語り伝えられている話、そして蓮生法師旧跡等を何回かに分けてご紹介させていただきます。

2007年11月21日

●「横蔵寺」

 横蔵寺は、岐阜県のJR大垣駅から車で40分ほどの揖斐郡谷汲村横蔵地区にあります。 (樽見鉄道谷汲口駅からバスもあります)この時期(11月1日から30日)はもみじ祭と称され、 近くの華厳寺とともに賑わいを見せていました。

 山号は両界山といい、延暦20年(801)に、伝教大師最澄が自作の薬師如来像を祀り開かれたお寺です。 織田信長により比叡山が焼き討ちされた後には、この横蔵寺の御本尊が比叡山根本中堂の本尊となりました。
 美濃の正倉院とも称されるほどの幾多の重要文化財である仏像類とともに、ここ両界山には妙心上人の舎利仏、即ちミイラが祀られています。 天明元年(1781)、横蔵に生を受けた妙心上人は、両親の没後、仏道修行のため巡礼の旅に出ました。西国、坂東、秩父の三十三ヶ所、 四国四十八ヶ所を巡り、信濃の善光寺大勧進にて受戒されました。その後、富士講の先達をつとめ、 文化12年(1815)に山梨県都留郡の御正体山の洞窟で入定されました。上人の遺体は村人たちによって厚く祀られていましたが、 明治23年に出生地であるこの横蔵寺に帰られ、祀られることとなったのです。

 さて、熊谷蓮生法師との関係は?と申しますと、 一部に伝えられている縁起によるとこの横蔵寺中興の祖となっています。この横蔵寺、 昔は今の場所よりさらに2キロほど登った山頂付近に三十八もの坊舎とともに建てられていたとのことで、 蓮生法師宝篋印塔もこの周りにあったそうですが、現在は移動されて寺門の裏手にひっそりと建てられている。 この蓮生法師、 元久元年(1204)5月13日、横蔵寺へ立ち寄った際、棟や梁が落ちかけている釈迦堂を目にして、 その再建費用のため自ら来迎阿弥陀如来像を刻み、念仏会の本尊として持仏堂に安置した。 この旨が記された銘が胎内から発見されたこの阿弥陀如来像は「熊谷弥陀」と呼ばれています。
 この熊谷弥陀ですが、この横蔵寺再建のために非常に貢献してきたようです。記録によりますと、文暦元年(1234)、 永仁2年(1294)の開帳により本堂、本尊を修補し、文明6年(1474)の開帳では仁王門と仁王尊像の修造をしたとの銘があり、 天文3年(1534)には「奉造立弁財天」の銘が残されています。

 お天気に恵まれたこの日、帰りのときには写真のように、まさに阿弥陀さまの光かのような陽光も見られました。

 

2007年10月17日

●「欣浄寺」

 法然上人25霊場の第12番となっている欣浄寺は三重県伊勢市にあります。
 法然上人が浄土宗を開宗の年、1175年に、念仏が広く伝わることを願って伊勢神宮に参篭された時の遺跡です。
 ここに籠もりましてお念仏をお称えし続けること7日目の朝、法然上人の前に大きな日輪が現れます。その中央には、6字の名号 (南無阿弥陀仏)が金色に燦然と光を放っていました。法然上人は、これを見て、念仏の教えは神の意にもかなっているいると大変喜ばれ、 自らその様子を写し、末代の証とするため、外宮に納められました。「日輪名号」と呼ばれております。
 その後、この日輪名号は宝庫に保管されていましたが、その宝庫が兵火で焼けたとき、 この名号のみが火中より飛び出して、笹の葉にかかって光を放っていたと伝えられていることから、「笹葉の名号」 とも称されています。また、さらには神社混淆の大日輪であることから、「本迹不二の御名号」とも呼ばれ、 欣浄寺に納められています。当時は神仏習合、本地垂迹説などが流行った時代ですので、こういったふうに呼ばれていたのでしょう。
 また、寺宝には法然上人御自作の「法然上人満月の像」も伝えられています。法然上人が四国へ流罪となったとき、 昔日に伊勢神宮に参詣し念仏の不可思議を体験されたことを思い出し、神恩奉謝も流罪の身では何もできないので、 せめて自ら木像をつくって伊勢神宮に納めようとしたのです。ところが、 それがなぜか伊勢へ送られる途中に大阪の専念寺におよそ400年もの間、留まっていたのです。天正19年正月に専念寺のある僧(頂誉上人) が「伊勢欣浄寺へ像を送るべし」との夢のお告げを受け、その法然上人の像を欣浄寺へ納めたと伝えられています。 そのときに月光が差したということから「法然上人満月の像」と呼ばれております。
 この欣浄寺は、もともとは外宮と内宮の間の山の上に建っていたが、仏が神を見下ろしていると思ったのであろうか、明治初期の神仏分離、 廃仏毀釈運動で破壊されたため、現在地に再建されたとのことです。


「やわらくる、神の光の影みちて、秋にかわらぬ、短か夜の月」

 このお歌の意味は、以下の通りです。
「阿弥陀さまをはじめ、仏さま・菩薩さまたちのお慈悲は何としても人々を救いたいと、煩悩の塵ないまみれたこの世界に姿を変えて現れ、 神の姿となって私たちを守り、導き、お念仏を勧めておられます。今、その神の御威光が満ち満ちています。夏の夜ではあるけれど、 月は秋のようにこうこうと輝き、その月の光の中で、神の御威光、すなわち阿弥陀さまのお慈悲の光を身と心でいただき、 夜の更けるのも忘れて一生懸命お念仏をお称え続けました。」


 阿弥陀さまの光というもの、これにつきまして皆さまがよく耳にされますお経で、『観無量寿経』というお経の『真身観文』 という段がございます。このお経は、お釈迦さまがお弟子さんたちに説かれたお話で、阿弥陀さまのことについてお話しされています。 阿弥陀さまはどんな方か?阿弥陀さまはどんなお姿なのか?阿弥陀さまのお力は阿弥陀さまのお考えは?阿弥陀さまの願いは? こういったことが説かれています。

 この中に、「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」という一節がありますが、 漢文でお読みしましてもわかりづらいと思いますので、読み下してみますと、「阿弥陀如来の光明は、遍く十方の世界を照らして、 念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」となります。
 阿弥陀さまの光は、十方の世界を照らしている。喩えるなら、月の明かり、月の光に喩えられます。月の明かりというものは、私たち、 男も女も、大人も子供も、また富める者も貧しい者も、関係なく照らしています。たとえ普段はは気がつかなくても、 私たちが月の明かりを見ようと顔を上げさえすれば、いつでもどこでも私たちを照らしてくれます。 阿弥陀さまの光はこの月の明かりと同じなのです。私たち自分自信が阿弥陀さまのことを心に抱くとき、 必ず阿弥陀さまは私たちの方を向いているのです。いつでもどこでも、日本中どこにいても、世界中どこにいても、 阿弥陀さまはつねに私たちの方を向いております。
 ですから、「阿弥陀さまお願いします」と、「南無阿弥陀仏」と声に出してお念仏を称える、そうすれば、 いつも見ていてくれているのですから、必ずその声をお聞きになっております。その声は間違いなく阿弥陀さまに届いているのです。 「念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」、お念仏を声に出して称える者を摂取する、つまりすくい上げる、そして捨て去ることはない、 救い漏らすことはない、必ずすく上げますよ、ということをおっしゃっているのです。
 
 阿弥陀さまの一番の願いというのは、私たちがこの世界で一生を終えたとき、次に生まれる世界、これは迷い・苦しみの一切無い世界、 西方極楽浄土の世界、ここに来て欲しい、生まれて欲しいというのが、阿弥陀さまの一番の願いなのです。
 私たちはこの阿弥陀さまの願いに乗っかって、西方極楽浄土の世界に往生させていただくということなのです。そのための約束事が、 「南無阿弥陀仏」と「阿弥陀さまお願いします」とお念仏を声に出してお称えすることなのです。
 このお歌のように、夏であっても秋と変わらぬほどに月の光は降り注がれている。阿弥陀さまは、 私たちのことをいつでも変わることなく見ていて下さっているのです。

 

2007年10月16日

●「樹敬寺」

 樹敬寺は、1195年、俊乗坊重源上人によって開かれた浄土宗の寺院で、三重県松阪市新町にあります。
 重源上人は、治承4年(1180)法然上人の推挙により、東大寺の大仏殿復興大勧進の職を拝命され、伊勢神宮の日輪御名号の縁にならい、 神宮に37日間祈願し、方寸の玉を授けられ大勧進巡錫をされて、大仏殿落慶供養された方です。重源上人は、 この功徳をもって国中に七ヶ所の念仏同所を建立され、樹敬寺はその中の一つであります。
 現在の本堂は、明治35年に再建されたものですが、境内には、本居宣長・春庭(長男)・壱岐(妻)のお墓があり、 国指定史跡となっています。

 本居宣長という方は、医師であると同時に、18世紀最大の日本古典研究家と言われております。 代表著書には、『古事記伝』などがあります。
 ここ樹敬寺は本居宣長家の菩提寺でありまして、祖先や子孫合わせて26基のお墓があります。記録によりますと、 本居宣長は仏教に対して批判的な説を唱えておりましたが、その半面に自分の家の仏事は欠かすことなくお勤めされていたとのことです。 参考までに申し上げますが、本居宣長の父親は夢の中で仏に出合った喜びを絵に描かせており、母は善光寺で得度しております。 また実の兄は増上寺真乗院主を勤めた高僧です。
自分自身も19歳のときに、この樹敬寺で五重相伝を受けております。

 

●「専修寺」

 ここ専修寺(せんじゅ、三重県津市一身田町2819番地)は、浄土真宗高田派の本山となっています。 高田派に所属する寺院は全国に600余ヶ寺あるとのことです。
 この専修寺さんは、元は2箇所にありまして、ひとつはここ津市の専修寺、もうひとつは、下野国(いまの栃木県です)にありました。 この栃木県にありました専修寺が大元であります。

 開かれたのは法然上人のお弟子であった親鸞さんです。鎌倉時代、1226年頃のことです。 承久の乱を過ぎた頃ですので、北条氏の執権政治が定着し始めた頃です。ここの地名が「高田」という地名でしたので、 このお寺に住持する門弟や信徒たちの教団のことを高田教団と呼んでいたそうで、そのまま浄土真宗高田派となったとのことです。
 津市の専修寺は、第10世の真慧上人という方が、1465年頃に伊勢国内の中心寺院として建てられたものですが、栃木の専修寺が、 戦国時代に焼失されてしまい、そこに住持するものたちは、これから参ります津市の専修寺に住まわれるようになったそうです。それ以来、 ここが本山としての機能を果たすようになったわけです。
 ちなみに、焼失した栃木の専修寺も江戸時代には再建され、現在もございます。

 この専修寺さんの境内には数多くの伽藍が建っておりまして、中でも一番大きな建物であります御影堂は重要文化財となっております。 畳七百二十五枚の広さということでして、国内有数の大きなお堂です。何度か火災に遭っておりまして、 現在のお同は1679年に落慶されたとのことです。現在解体修理中とのことですので、見ることができるのかどうかちょっとわかりません。 また、国宝に指定されています西方指南抄などの宝物も所蔵して現代に伝えてられています。

 もうひとつ、この専修寺の見物としましては、この御影堂に並んで建てられております如来堂です。「証拠の如来」 と呼ばれる阿弥陀如来立像を本尊としており、この如来堂がここ専修寺さんの本堂となります。 広さは御影堂に比べると半分にも満たないのですが、阿弥陀如来の仏殿にふさわしい華麗な建築になっております。落慶の1748年とのことで、 平成2年に大改修が施されております。

 

2006年09月26日

●「阿弥陀寺」

  諏訪湖から霧ケ峰高原へと通じる道路に入るとすぐに入口を示す石碑が建っている。 狭くかなりの急坂を登るとちょっと開けた平地の駐車場がある。ここかと思うと、石垣風の嶽門(たけもん)という山門がある。 実はさらに急な坂を登った上に阿弥陀寺は建っている。この阿弥陀寺は平成5年に庫裡からの出火により本堂等主要建物を一塵に帰している。 この2年前、私は「浄土伝導学」という科目の研修でこの阿弥陀寺を訪れている。当時は参道は蛇行したまさに山道であり、 当然アスファルトも敷いて無かった。平成8年、信濃善光寺大本願の本堂であった「旧誓殿」を移築し、念仏道場としての再興を経たという。
 ここ阿弥陀寺は浄土宗寺院であり、正式には法国山阿弥陀寺という。慶長3年(1598)、 弾誓上人の開山であり、 本尊は本堂裏山の板状節理の岸壁がそそり立つ岩場の一坪ほどの岩窟(岩屋堂)に安置してある石造十一面観世音菩薩像であり、 開山当時はこの岩窟が念仏不断の道場であったということである。岩屋堂から臨む諏訪湖とその町並はまさに景勝といえるでしょう。
 境内には、鐘楼や麿崖の句碑、石仏が立ち並んでおり、信濃国三十三番観音霊場の第二十四番札所、 また伊那諏訪八十八ヶ所の内の二十一番札所となっています。
 最後に、阿弥陀寺の御詠歌を2歌あげさせていただきます。

唐沢や岩間に結ぶ観世音
 誓いの水は汲めどつきせじ

南無阿弥陀仏の御影瑠璃の地も
 ふみみるばかりこぼさざるなみ

*平成13年11月9日参詣

 

2006年09月23日

●「嵯峨清涼寺」

 嵯峨釈迦堂と親しまれている清涼寺は、山号は五台山で浄土宗寺院である。 本尊の釈迦如来像は釈迦37歳の生身の像として中国で刻されたもので、体内には絹で作られた五臓六腑や経文等が収められている。
 開山は永観2年(984)頃、前述の釈迦如来像を中国より持ち帰った東大寺の奝然が南都仏教の興隆のため開いたのが始まりであり、 16世紀以降浄土宗が主体の寺院となった。現在の本堂は元禄14年(1701)に再建されたものである。証空の自筆の「熊谷蓮生宛返書」 や蓮生自筆の「誓願文」並びに「夢記」などが収蔵されている。
 本堂横にある石碑は豊臣秀頼の首塚で、 昭和55年大阪城の三の丸跡地の発掘で出土した秀頼の首を秀頼再興の由緒を持つ当寺で祀ったものです。

 

 

 

 

 *平成17年11月18日、友人のお寺団参のお手伝いで訪れた嵯峨です。

 

2006年09月21日

●「金戒光明寺」

  「くろ谷さん」の愛称で親しまれている金戒光明寺は浄土宗五大本山のひとつで、 承安5年(1175年)春、法然上人が開かれたお寺です。正式名は紫雲山黒谷。比叡山にて厳しい修業と学問の日々を過ごし、 ようやく辿り着いたお念仏の教え、この教えを皆に広めようと決意した場所、これがここ金戒光明寺なのです。それゆえ、 ここ金戒光明寺は、「浄土真宗(じょうどまことのしゅう)発祥の地」といわれています。
 本尊は恵心僧都源信の遺作阿弥陀如来像、宝物には法然上人御真筆の「一枚起請文」などがあります。また、 御影堂右手前には熊谷直實が仏門に入り必要となくなった鎧兜を掛けたと言われている「熊谷鎧掛けの松」もあります。

 山門脇には蓮池院(熊谷堂)があります。名前の通り、 ここ蓮池院は熊谷直實が出家し法力房蓮生法師となって修行した場であり、一角には「熊谷蓮生供養塔」と「平敦盛供養塔」 が法然上人御廟を挟む形で建てられています。

 

 

 また、黒谷山内には西雲院という浄土宗寺院があります。ここには、前述の通り、 法然上人が布教を決意した際に腰掛けたといわれている「紫雲石」なるものがあります。

 *平成17年9月13日、京都知恩院にて行われた詠唱講習会の後、訪れた際の記録です。

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

2006年06月24日

●「甲斐善光寺」

 去る6月下旬、浄土宗青年会関東ブロックの研修会が山梨県甲府市にて行われました。暑さでは熊谷と並び有名な甲府盆地、 せっかく訪れたからにはと、この甲斐の地にある府中(甲府)五大寺のひとつ甲斐善光寺を参詣させていただきました。「牛に引かれて」 で有名な信濃(長野市)善光寺とともに、この甲斐(甲府市)善光寺も参詣しなければかた詣りであり、 その効果も半分であるなどと言われています。
 20060624 甲府市の善光寺は、山号を定額山、院号を浄智院、信濃善光寺とまったく同じ寺名であり、 甲府浄土宗の触頭寺院を勤めています。甲斐善光寺の始まりは、その縁起によると元禄元年(一五五八)に、 多くの戦国武将を震えさせたかの武田騎馬隊を指揮した信玄公が、 川中島の合戦の際に信濃善光寺の焼失を恐れて御本尊善光寺如来像をはじめ、 諸仏寺宝類をこの地に奉遷したことが始まりとされています。武田氏滅亡後、この御本尊は織田・豊臣氏を転々としましたが、 慶長三年(一五九八)、お告げを夢で見た徳川家康によって信濃へ帰座されることとなりました。現在の御本尊は、 この帰座された御本尊の前立仏として造立されたもので、一光三尊の形式をとり、秘仏とされています。 次の御開帳は平成二十二年頃となります。
 本堂(金堂)は撞木造りと呼ばれる独特の形式で、威風堂々とした山門とともに国の重要文化財に指定されています。 本堂の天井には巨大な龍が二頭描かれており、吊り天井となっているため、手を叩くと多重反響現象により共鳴が起こります。それゆえ、 鳴き龍と呼ばれています。また、境内にはその大きさのため、信濃から引き摺って運んだといわれている「引き摺りの鐘」 が今も時を告げています。本堂地下には、信濃善光寺や当山でもお馴染みの「戒壇廻り」が備えられています。
 宝物館には、史実とは異なるものの信濃善光寺参詣が伝承されている浄土宗の開祖法然上人の木造座像と、 こちらは参詣されたかもしれない蓮生法師木造座像(ともに伝鎌倉時代作)が安置してあります。
 法然上人、蓮生法師、そして戒壇廻り、当山と共通するところの多いこの甲斐善光寺、みなさまも是非一度ご参詣下さい。私も、 また季節を変え訪れてみたいと思います。恥ずかしながら、一句をもってお話を閉めさせて頂きます。

   甲斐の路 壇を歩む眼には 
     弥陀のはからひ 嬉しかりけり

2006年03月04日

●「寶積山大龍寺」

 大龍寺は熊谷市(旧妻沼町)葛和田の中心に位置する浄土宗寺院である。

 開山は徳川家康並びに秀忠公の帰依がことの外厚かった演蓮社智誉幡随意上人で、開基は成田氏の家臣島田采女正、慶長10年 (1605)開創である。家光公より御朱印20石を賜るとともに歴代将軍の外護持も厚かったが、明暦3年に暴風のため本堂は大破し、 寛文6年に改築するも、文久3年に雷火のため本堂、庫裏、鐘楼等一塵に帰してしまった。現本堂は昭和33年に再築せしもので、 平成17年秋に開創400年を記念し改築を施し、記念法要を奉修した。御本尊は、円後背に線光を施した阿弥陀如来像である。


 境内には、本堂、山門、庫裡、鐘楼、不動堂、薬師堂、命体堂、などがある。また、寺宝の三十三体観音像は文化財に指定されており、 総丈76センチメートルの逸品である。

2006年02月12日

●「鶉沢山西念寺」

 西念寺は東武東上線玉淀駅より西へ1分のところに位置する浄土宗寺院である。
 開山は廓蓮社大誉上人、中興は第4世然蓮社上人。御本尊は、恵心僧都源信作阿弥陀如来像である。

 境内には、本堂はもとより、山門、庫裡、客殿の他、清龍不動の滝、赤鳥居、稲荷祀堂、薬師堂、 大野法堂台下御染筆の六字名号碑などがある。また、武州寄居十二支守り本尊霊場、阿弥陀如来を守り本尊とする戌亥歳の縁日も催されている。

2006年02月04日

●「稲荷山東源寺」

 東源寺はJR深谷駅より北東へ約1†の稲荷町に位置する浄土宗寺院である。
 

 開山は空蓮社真誉善公上人で、文明18年(1486)開創である。本堂は何度かの火災に見舞われており、現在の本堂は江戸時代末期、 文久3年、観蓮社喜誉信碩上人によって再建されたものであり、昭和40年には大改修を行い、境内の面目を一新している。
 御本尊は、来迎阿弥陀三尊立像である。  
  
 山門前には「菊図坊祖英塚」がある。菊図坊は江戸中期、石川県生まれで、生涯を旅して送った俳人 (禅僧)である。縁あって現在境内(当時は中山道沿い)にある地蔵堂に居を構え、俳句を指導していたが、あるとき 「死ぬ事を知って死ぬ日や としの暮れ」との辞世の句を残して姿を消したという。この塚は弟子達が師を偲んで建立したものである。

2005年11月18日

●「嵯峨法然寺」

  嵯峨の位置する極楽殿熊谷山法然寺は浄土宗寺院であり、圓光大師(法然上人)二十五霊場の第十九番となっている。


(以下法然寺ホームページより)
法然寺の歴史は・・・・

 戦国の武将であった熊谷次郎直実は十六歳の平敦盛を戦いで殺した事は有名です。 それだけでなく武将としての歴史に残る戦いにも大きな手柄を幾つもあげました。しかし武士ににあるまじき,味方を裏切ったり, 敵と内通したりした事もあり、その人生は波乱万丈でした。その自分の人生に怒りを覚え,自決する決心をして,世に聞く高僧である, 法然上人に見届けて頂き,極楽への旅路を希望し、この時初めて法然上人にお出遭いし,法然上人より、 どんな罪人でも阿弥陀さんを信じたら誰でも極楽往生が出来る、仏教の慈悲に初めて触れ、周囲の反対にもかかわらず出家をします。
出家後は蓮生房(れんせいぼう)と言うお坊さんの名前に変え,まず敦盛の供養を高野山でして京都に滞在しながら,世の為,人の為、 自分の全ての財産を使い学校や橋や道や沢山の寺院も作りました。大きな功績を残してくれましたが,財産を全て無くし,先祖が途絶えてしまい, 大きな犠牲を支払った事に対して我々は感謝したいと思いますが,皆様は如何でしょうか?
 最初、法然寺は京都市内の真ん中,四条烏丸の北の、元法然寺町にありました。その後の法然寺は,正応年間(1289†1292)には、 ご病気であった伏見天皇からの手厚い加護を受け,続いて後奈良,正親町天皇の勅願寺となる。 その間には足利義政や豊臣秀吉からの扶助も受ける。徳川幕府から三百石と御朱印を拝した。京都市内を転々とし、四条寺町下るから、 この嵯峨の地には三十年前に転居してきたので、嵯峨の地と法然寺を結び付るものはない。
http://www.kyoto.zaq.ne.jp/saga/hounenji/hounenji.html

 

2005年04月01日

●「京都知恩院」

 浄土宗の総本山、 知恩院は浄土宗の開祖法然上人が30有余年にわたって念仏の教えを説かれた京都東山の地「吉水の草庵」に始まります。

 法然上人滅後23年、文暦2年(1234)弟子の勢観房源智上人が報恩のために伽藍を建立し、四条天皇より「華頂山知恩教院大谷寺」 の寺号を賜り、法然上人の御廟、念仏の根本道場の基礎が築かれました。 


 
 現在の寺観は江戸時代になって、浄土宗の教えに帰依した徳川家によって整えられたもので、 大小106棟の建物からなっています。室町時代にかかる諸堂最古の勢至堂や、 日本現存の木造建築の門の中で最大の規模をもつ三門をはじめ、経蔵、御影堂、大方丈、小方丈、勅使門、大鐘楼、集会堂、大庫裡・ 小庫裡などはいずれも重要文化財となっています。

2004年11月18日

●「勝願寺」

 東京芝増上寺や鎌倉光明寺とならび浄土宗関東十八檀林の一つに数えられる浄土宗第三祖良忠上人開山の名刹です。
 
 檀林とは栴檀林(せんだんりん)のことで、寺院の美称が本来の意味ですが、室町時代の末ごろから、 教学を学ぶ場所を檀林と称すようになり(現在で言う大学のようなもの)、談林(法門の談義を行う学林)とも言われておりました。
 
 徳川家康が帰依し、 浄土宗の関東十八檀林の1ヶ寺となった同寺には馬室などに領地を与えられた牧野氏や関東郡代として治水工事や検地などに腕を振った伊奈忠次の墓があります。 また、鴻巣を開発した小池氏、鴻巣宿が生んだ県下屈指の俳人横田柳几や、「武蔵志」を著した知識人福島東雄、 信州上田城主真田信之に嫁した小松姫、戦国武将仙石秀久などゆかりの寺でもあります。

2004年10月12日

●「長野仏導寺」

 

 

 

 

2004年07月21日

●「三高院」

 三高院は,深谷城主だった松平源七郎康直の菩提寺である。

 松平源七郎康直は徳川家康の関東入国後の、初代深谷城主であり、18松平のうち長沢松平の出で、その母は家康の妹である。 徳川家康の甥にあたる康直は,家康の江戸入りの後,豊臣秀吉の北条攻め(岩槻城攻め)のときの功績により, 深谷城主となり1万石を家康から与えられた。しかし,2年後の文禄2年(1593),康直は25歳で若くしてこの世を去った。
 墓は本堂横にある宝篋印塔が彼の墓であり、「三高院文書」と共に深谷市の文化財に指定されている。

 本尊阿弥陀如来は、康直の息女、連姫(長寿院)が、寄進したものであり、連姫は父の死後、 家康の養女となり化粧料7千石を授かり筑後國の有馬玄蕃頭豊氏に嫁いだ。また、康直の母、矢田姫は家康の妹であったが、 長沢松平家が断絶するのを憂い、家康の七男松千代に深谷城を継がせたが、8歳で没したため、 家康の六男忠輝が10代目として相続しました。
このように、長沢松平家と徳川家とは深い関係をもっていたのである。
 
 
 三高院の創建は、文禄3(1594)年頃であり、徳川家康の妹矢田姫の嫡子松平源七郎康直を開基とし、 広蓮社天誉立光上人を開山としている。三高院縁起(文書)によれば、1700年頃に堂宇を焼失、 第9世覚蓮社成誉円我上人の代にて再建するも、寛政年間に再度焼失したとされている。長らく古家を買い求め仮堂としていたが、文久2 (1863)年、第25世念蓮社得誉覚龍上人の代に、檀家の人々はもちろんのこと、中山道を往来する旅人、また寺社奉行の許しを得たうえで、 御府内の武家方や十か国の人々たちの喜捨により再建された。
 その後、幾多の改修・移設等を経て、現在の本堂及び庫裡は第29世愍誉晃俊上人の代にて再建・落慶されたものである。
『三高院縁起』より抜粋

2002年03月01日

●「諏訪阿弥陀寺」

 

 

 

 

2001年12月01日

●「善光寺参詣」

 今秋、紅葉には少々早い十月末訪れた善光寺。この寺院をご存じない方はそうはいらっしゃらないと思いますが、 改めてこの善光寺をご紹介させていただきます。


 長野駅を降り外へでると、駅前には善光寺の参道へと続く道が延びています。2キロメートルもない距離ですので歩いていくことにしました。  
  しばらくすると、仁王門にさしかかります。仁王さまに懺悔をし、 けがれを清めてもらったのちこの門をくぐります。 
 
 さらに進み、大門を過ぎ、左右に浄土宗大本山のひとつである善光寺大本願や四十あまりの寺院と宿坊を見ながら三門(山門)へと進みます。 この門をくぐると目の前に今回の目的である善光寺本堂があらわれます。

 善光寺は、日本最古のみ仏を祀る日本を代表する霊場であり、寺伝によると、皇極天皇三年に勅願によって建立されたものです。 ご本尊の「一光三尊阿弥陀如来」はインド・百済国を経て、欽明天皇十三年に日本に渡られた三国伝来のみ仏で秘仏となっており、 七年に一度の御開帳で姿を見せるのみとなっています。また、本堂床下には「戒壇巡り」があります。これは当寺と同じものであり、 真っ暗闇の中を右手で腰の高さに壁をつたって進むと、やがて重々しい錠前が手に触れます。この錠前は本尊の真下にあり、 本尊とつながっています。触れれば本尊と結縁することができる、 すなわち阿弥陀さまのおつくりになった西方極楽浄土への往生が約束されるのです。
 「牛にひかれて善光寺」などと、善光寺信仰と呼ばれるその魅力は、無宗派であり誰もが参詣できること、極楽浄土を目的にしていること、 女性救済を積極的に行ってきたこと、そしてなにより、貴族でも国家でもない、庶民のための寺院であること、などが挙げられるでしょうか。

 訪れたなら、是非とも「お朝時」に赴いていただきたい。 お朝時とは善光寺で毎朝(日の出時刻によって開始時間が変わる)行われるお勤めのことであり、 本堂での拍子木の高々とした音が鳴り、天台宗、浄土宗の順でお勤めが始まります。 このお朝時を勤めるためには宿坊に泊まるとよろしいでしょう。今回はあいにくこの宿坊が空いておらず、 駅近くのホテルへ泊まることとなってしまいましたが、この宿坊とは前述の通り善光寺参道沿いにある各宗派の寺院であり、 浄土宗でいうと「淵之坊」という寺院があります。 お寺の宿坊などというとあれやこれや厳しいことがあるのかとご心配されるかもしれませんが、そんなご心配は無用です。 隣部屋との仕切が襖であるということ以外は一般の旅館と同じで、食事は宿坊らしく精進料理をいただくこととなります。 当方も次回善光寺を参詣するときにはここに泊まってみたいと考えています。

 

2000年10月13日

●「誕生寺」

 浄土宗の総本山は、京都にあります知恩院(浄土宗開祖法然上人開山)です。この知恩院を筆頭に、東京芝の増上寺、京都の金戒光明寺、 知恩寺、清浄華院、福岡の善導寺(浄土宗二祖弁長上人開山)、鎌倉の光明寺(浄土宗三祖良忠上人開山)、長野の善光寺大本願の七大本山、 滋賀の蓮華寺の一本山、そして岡山の誕生寺、京都の光照院門跡、得浄明院、三時知恩寺の四特別寺院、さらに熊谷寺、久山寺、 蓮昭寺といった各一般寺院で浄土宗は構成されています。
 今回は、このうち、法力房蓮生法師(熊谷直実)ゆかりの地、岡山の誕生寺をご紹介させていただきます。
 

 誕生寺の正式名は、栃社山誕生寺といい、法然上人二十五霊場の第一番となっている。この地は、 崇徳上皇の御代の長承二年(一一三三)四月七日、 久米南町稲岡ノ庄の押領使漆間時国の長子としてお生まれになった法然上人の誕生の地である。

 建久四年(一一九三)には、法然上人の弟子である蓮生法師が、師の命により、上人の木像を背負ってこの地に訪れ、 旧邸を寺院に改めたとされている。

 JR津山線誕生寺駅から、 誕生寺道を五分ほど歩いて鉄道の高架橋をくぐると蓮生法師が法然上人の館跡を目前に、感激号泣し、 天地も裂けんばかりに念仏を称えたといわれている念仏橋がある。一メートルほどの小川にかかった石橋で、恥ずかしいことに、 私は気づかずに通り過ぎてしまい、あわてて引き返し、傍らの案内板で確認する始末であった。この小さな橋を、 当時の蓮生法師の胸中を想像しながら、ふみしめるように渡ると、まっすぐ前方には誕生寺の山門が目に入る。
 
 山門前にて合掌し、早速境内に入ってみる。山門をくぐると眼前には、逆木の公孫樹なるものが生えている。 法然上人十三歳の時にお手植えの銀杏であって、根が逆さまに伸びたという。確かに変わった銀杏であると思いながら、右手の方に目をやると、 毘沙門堂、阿弥陀堂、左手の方には、文殊堂、観音堂、そして正面には、御影堂(本堂)がある。 御本尊は阿弥陀仏で両脇に観音勢至両菩薩を随え、右左の陣には善導大師と法然上人の御木像が祀られている。 国の重要文化財にも指定されている立派な御影堂である。さらにその奥には、法然上人お誕生の奇瑞をつたえる両幡の椋、勢至丸 (法然上人の幼名)に右目を射られた明石定明が小川で右目を洗ったが、 以後片目の魚が出現するようになったという曰く付きの川である片目川がある。川を渡り右手には、法然上人産湯の井戸などがあり、 左手の坂を登ると、法然上人がご幼少のみぎり勉学された那岐山の菩提寺、母が祈願した岩間観音(棚原町・天台宗総本山)の本山寺などがある。

 さて、ここで法然上人の生い立ちについて少しばかり話しておきたい。
 法然上人の御両親である漆間時国公夫妻は長い間子宝に恵まれなかった。その為、夫妻は岩間観音に参籠祈願されたところ、その夜、 妻の秦氏は剃刀を呑む夢を見て懐妊し、月満ちて勢至丸さまが誕生された。そのとき、館の上には紫雲たなびき、 いずこからともなく二本の白幡が飛来し、ふたまたの椋の木にかかり輝き、幡についている鈴の音が天に響きわたり、 お誕生をたたえられたと伝えられている。

 何不自由なくすくすくと薫育された勢至丸さまであるが、九才のとき父時国公は、源内武者明石定明という武士によって、 夜討ちをうけて亡くなった。その遺言は「わが仇を討ってはならぬ、もし仇を討てば、相手の子もまたお前を仇としてねらい、 この世に争いの尽きることがない。思い止まって出家得度せよ。」というものであった。


  勢至丸さまは、菩提寺(奈義町高円)の観学徳業のもとにあずけられたが、観学は勢至丸さまの秀才ぶりと、 時国公の遺言を思うにつけ、徒らに辺郷で一生を過ごさせるには惜しいと考え、比叡山持宝房源光のもとに付託されたのである。勢至丸さま、 つまり法然上人は、ひたすら仏の道を歩まれることとなったのである。  
 

 その後の法然上人の足跡は、勝手ながら、またの機会にご紹介させていただくこととし、 蓮生法師が感激して詠まれた歌をご紹介して結びとしたいと思います。この歌は、 浄土宗御詠歌の第一番として今も多くの人々に唱和されています。

 両幡の 天下ります 椋の木は
 世々に朽ちせぬ 法の師のあと

(歌の大意)上人がお生まれになったとき、天の彼方から二流れの白い幡が飛んできて、 庭の椋の木に掛かり、美しく輝いたと伝えられている。この木とともにお念仏のみ教えも、時を越えていつまでも繁り栄えることであろう。

 自分自身を救い、その後の生き方を示していただいた師法然上人と、お念仏のみ教えへの一途な思いが込められている、 蓮生法師ならではの歌であるといえるでしょう。
 

2000年10月12日

●「仏生山法然寺」

 去る10月11日、2週間ばかり四国・中国・九州と旅行して参りました。今回は四国に到着し、2番目の参拝寺院、 仏生山法然寺についてお話しします。 
 
 山門前には前池という大きな池がある。この仏生山町にはこのような池が数多く存在する。  
  
 法然寺は、高松市の南部、仏生山町にある古寺である。建永2年(1207)に、 法然上人が御年75歳で四国に流された際にお住みになった小松庄生福寺の遺跡である。ここを江戸時代に高松藩祖松平頼重公が復興して、 代々の菩提寺とした。

 徳川家康公の孫であり水戸の徳川光圀公の実兄にあたる頼重公は法然上人を追慕して浄土宗に帰依し、高松入国ののち、寛文8年6月 (1668)竹井齏廃を奉行として3年の歳月を費やして三十ニ門、二十余宇の仏閣僧房を建立した。 法然上人自作の阿弥陀仏および上人の真影を本堂に安置し、また上人と松平家の墓所を山頂に築いて「般若台」と名づけ、 檀下に来迎堂をもうけて弘法大帥自作の阿弥陀如来ならびに二十五菩薩を祀り、不断常念仏会を行わせた。
 これにより法然寺は名実ともに浄土宗四箇本山に準ずる巨刹となり山号を仏生山、院号を来迎院、 寺号をを法然寺と呼ぶことになったわけである。

 総門から「二河白道」にみたてられた松平家の参道をゆくと黒門を経て仁王門に至ると、その上の仏生山の頂上は、松平家一門の墓地 「般若台」となり極楽の世界を形づくっている。この総門から山頂に至るたくみな諸堂の配置は、法然寺の特色となっているそうである。また、 古来より「さぬきの寝釈迦」と呼ばれる、全長約3mの著名な釈迦涅槃像が安置してある涅槃堂の彫像群は、他に類例少なく、 さらに来迎堂の二十五菩薩立像群は極めて珍しいものでる。(* 本文は仏生山法然寺HPより抜粋

 

 

2000年10月11日

●「熊谷寺(くまたにじ)」

 去る10月11日、2週間ばかり四国・中国・九州と旅行して参りました。今回は四国に到着し、最初の参拝寺院、 熊谷寺についてお話しします。


 徳島港から徳島自動車道路に乗って数十分、土成I.C.より10分ほどのところ、土成町に熊谷寺という寺院がある。 蓮生法師と関わりがあるのかないのか?道路を挟んで向かいの池の畔には当寺院と同様に稲荷神社もある。
 ただし、「ゆうこくじ」と読むのではなく、「くまたにじ」と読む点である。私の住む熊谷(くまがや) のように、昔は熊の出没する谷であったのだろうか?しかし、この寺院以外にそのような名前のつく地名も建造物もない。

 熊谷寺(くまたにじ)は、四国四拾八カ所巡りの8番札所となっており、私が訪ねたときには、 観光客はもとよりお遍路さんたちも多数参拝しており、般若経を読む声が空に響いていた。
 熊谷寺(くまたにじ)の正式名称は真光院熊谷寺といい、弘法大師空海開宗の真言宗寺院である。やはり、 蓮生法師との関係はこれといって見つからない。


 住蓮・安楽の事件にからんで、法然上人は四国へ配流となった。このとき、法然上人は四国各地をまわり、念仏の教えを広めたと言われている。 現に、法然上人を開山とする仏生山法然寺という寺院まで存在している。法然上人が自分の弟子の蓮生法師(俗名は熊谷次郎直実) について話をしたりして、それが語り継がれて熊谷寺(くまたにじ)となったのであろうか?
 また、蓮生法師は性格は実直、悪く言えばひとつのことを思うと周りが見えなくなってしまうといったものであったから、 配流された上人の健康を心配し、四国まで着いていったから、そういった名前が残っているのであろうか?
 事実、四国には蓮生法師の墓(慰霊碑?)と称されるものが建立されている寺院も存在する。


 結論には至らなかったが、いずれにせよ、蓮生法師の話は全国各地で語り継がれており、それもまた真偽は追求せず、 こうでもないああでもないと話の種にでもなれば、それでいいのかもしれない。