2000年10月13日

●「誕生寺」

 浄土宗の総本山は、京都にあります知恩院(浄土宗開祖法然上人開山)です。この知恩院を筆頭に、東京芝の増上寺、京都の金戒光明寺、 知恩寺、清浄華院、福岡の善導寺(浄土宗二祖弁長上人開山)、鎌倉の光明寺(浄土宗三祖良忠上人開山)、長野の善光寺大本願の七大本山、 滋賀の蓮華寺の一本山、そして岡山の誕生寺、京都の光照院門跡、得浄明院、三時知恩寺の四特別寺院、さらに熊谷寺、久山寺、 蓮昭寺といった各一般寺院で浄土宗は構成されています。
 今回は、このうち、法力房蓮生法師(熊谷直実)ゆかりの地、岡山の誕生寺をご紹介させていただきます。
 

 誕生寺の正式名は、栃社山誕生寺といい、法然上人二十五霊場の第一番となっている。この地は、 崇徳上皇の御代の長承二年(一一三三)四月七日、 久米南町稲岡ノ庄の押領使漆間時国の長子としてお生まれになった法然上人の誕生の地である。

 建久四年(一一九三)には、法然上人の弟子である蓮生法師が、師の命により、上人の木像を背負ってこの地に訪れ、 旧邸を寺院に改めたとされている。

 JR津山線誕生寺駅から、 誕生寺道を五分ほど歩いて鉄道の高架橋をくぐると蓮生法師が法然上人の館跡を目前に、感激号泣し、 天地も裂けんばかりに念仏を称えたといわれている念仏橋がある。一メートルほどの小川にかかった石橋で、恥ずかしいことに、 私は気づかずに通り過ぎてしまい、あわてて引き返し、傍らの案内板で確認する始末であった。この小さな橋を、 当時の蓮生法師の胸中を想像しながら、ふみしめるように渡ると、まっすぐ前方には誕生寺の山門が目に入る。
 
 山門前にて合掌し、早速境内に入ってみる。山門をくぐると眼前には、逆木の公孫樹なるものが生えている。 法然上人十三歳の時にお手植えの銀杏であって、根が逆さまに伸びたという。確かに変わった銀杏であると思いながら、右手の方に目をやると、 毘沙門堂、阿弥陀堂、左手の方には、文殊堂、観音堂、そして正面には、御影堂(本堂)がある。 御本尊は阿弥陀仏で両脇に観音勢至両菩薩を随え、右左の陣には善導大師と法然上人の御木像が祀られている。 国の重要文化財にも指定されている立派な御影堂である。さらにその奥には、法然上人お誕生の奇瑞をつたえる両幡の椋、勢至丸 (法然上人の幼名)に右目を射られた明石定明が小川で右目を洗ったが、 以後片目の魚が出現するようになったという曰く付きの川である片目川がある。川を渡り右手には、法然上人産湯の井戸などがあり、 左手の坂を登ると、法然上人がご幼少のみぎり勉学された那岐山の菩提寺、母が祈願した岩間観音(棚原町・天台宗総本山)の本山寺などがある。

 さて、ここで法然上人の生い立ちについて少しばかり話しておきたい。
 法然上人の御両親である漆間時国公夫妻は長い間子宝に恵まれなかった。その為、夫妻は岩間観音に参籠祈願されたところ、その夜、 妻の秦氏は剃刀を呑む夢を見て懐妊し、月満ちて勢至丸さまが誕生された。そのとき、館の上には紫雲たなびき、 いずこからともなく二本の白幡が飛来し、ふたまたの椋の木にかかり輝き、幡についている鈴の音が天に響きわたり、 お誕生をたたえられたと伝えられている。

 何不自由なくすくすくと薫育された勢至丸さまであるが、九才のとき父時国公は、源内武者明石定明という武士によって、 夜討ちをうけて亡くなった。その遺言は「わが仇を討ってはならぬ、もし仇を討てば、相手の子もまたお前を仇としてねらい、 この世に争いの尽きることがない。思い止まって出家得度せよ。」というものであった。


  勢至丸さまは、菩提寺(奈義町高円)の観学徳業のもとにあずけられたが、観学は勢至丸さまの秀才ぶりと、 時国公の遺言を思うにつけ、徒らに辺郷で一生を過ごさせるには惜しいと考え、比叡山持宝房源光のもとに付託されたのである。勢至丸さま、 つまり法然上人は、ひたすら仏の道を歩まれることとなったのである。  
 

 その後の法然上人の足跡は、勝手ながら、またの機会にご紹介させていただくこととし、 蓮生法師が感激して詠まれた歌をご紹介して結びとしたいと思います。この歌は、 浄土宗御詠歌の第一番として今も多くの人々に唱和されています。

 両幡の 天下ります 椋の木は
 世々に朽ちせぬ 法の師のあと

(歌の大意)上人がお生まれになったとき、天の彼方から二流れの白い幡が飛んできて、 庭の椋の木に掛かり、美しく輝いたと伝えられている。この木とともにお念仏のみ教えも、時を越えていつまでも繁り栄えることであろう。

 自分自身を救い、その後の生き方を示していただいた師法然上人と、お念仏のみ教えへの一途な思いが込められている、 蓮生法師ならではの歌であるといえるでしょう。
 

2000年10月12日

●「仏生山法然寺」

 去る10月11日、2週間ばかり四国・中国・九州と旅行して参りました。今回は四国に到着し、2番目の参拝寺院、 仏生山法然寺についてお話しします。 
 
 山門前には前池という大きな池がある。この仏生山町にはこのような池が数多く存在する。  
  
 法然寺は、高松市の南部、仏生山町にある古寺である。建永2年(1207)に、 法然上人が御年75歳で四国に流された際にお住みになった小松庄生福寺の遺跡である。ここを江戸時代に高松藩祖松平頼重公が復興して、 代々の菩提寺とした。

 徳川家康公の孫であり水戸の徳川光圀公の実兄にあたる頼重公は法然上人を追慕して浄土宗に帰依し、高松入国ののち、寛文8年6月 (1668)竹井齏廃を奉行として3年の歳月を費やして三十ニ門、二十余宇の仏閣僧房を建立した。 法然上人自作の阿弥陀仏および上人の真影を本堂に安置し、また上人と松平家の墓所を山頂に築いて「般若台」と名づけ、 檀下に来迎堂をもうけて弘法大帥自作の阿弥陀如来ならびに二十五菩薩を祀り、不断常念仏会を行わせた。
 これにより法然寺は名実ともに浄土宗四箇本山に準ずる巨刹となり山号を仏生山、院号を来迎院、 寺号をを法然寺と呼ぶことになったわけである。

 総門から「二河白道」にみたてられた松平家の参道をゆくと黒門を経て仁王門に至ると、その上の仏生山の頂上は、松平家一門の墓地 「般若台」となり極楽の世界を形づくっている。この総門から山頂に至るたくみな諸堂の配置は、法然寺の特色となっているそうである。また、 古来より「さぬきの寝釈迦」と呼ばれる、全長約3mの著名な釈迦涅槃像が安置してある涅槃堂の彫像群は、他に類例少なく、 さらに来迎堂の二十五菩薩立像群は極めて珍しいものでる。(* 本文は仏生山法然寺HPより抜粋

 

 

2000年10月11日

●「熊谷寺(くまたにじ)」

 去る10月11日、2週間ばかり四国・中国・九州と旅行して参りました。今回は四国に到着し、最初の参拝寺院、 熊谷寺についてお話しします。


 徳島港から徳島自動車道路に乗って数十分、土成I.C.より10分ほどのところ、土成町に熊谷寺という寺院がある。 蓮生法師と関わりがあるのかないのか?道路を挟んで向かいの池の畔には当寺院と同様に稲荷神社もある。
 ただし、「ゆうこくじ」と読むのではなく、「くまたにじ」と読む点である。私の住む熊谷(くまがや) のように、昔は熊の出没する谷であったのだろうか?しかし、この寺院以外にそのような名前のつく地名も建造物もない。

 熊谷寺(くまたにじ)は、四国四拾八カ所巡りの8番札所となっており、私が訪ねたときには、 観光客はもとよりお遍路さんたちも多数参拝しており、般若経を読む声が空に響いていた。
 熊谷寺(くまたにじ)の正式名称は真光院熊谷寺といい、弘法大師空海開宗の真言宗寺院である。やはり、 蓮生法師との関係はこれといって見つからない。


 住蓮・安楽の事件にからんで、法然上人は四国へ配流となった。このとき、法然上人は四国各地をまわり、念仏の教えを広めたと言われている。 現に、法然上人を開山とする仏生山法然寺という寺院まで存在している。法然上人が自分の弟子の蓮生法師(俗名は熊谷次郎直実) について話をしたりして、それが語り継がれて熊谷寺(くまたにじ)となったのであろうか?
 また、蓮生法師は性格は実直、悪く言えばひとつのことを思うと周りが見えなくなってしまうといったものであったから、 配流された上人の健康を心配し、四国まで着いていったから、そういった名前が残っているのであろうか?
 事実、四国には蓮生法師の墓(慰霊碑?)と称されるものが建立されている寺院も存在する。


 結論には至らなかったが、いずれにせよ、蓮生法師の話は全国各地で語り継がれており、それもまた真偽は追求せず、 こうでもないああでもないと話の種にでもなれば、それでいいのかもしれない。