●「東松山市立図書館「歴史の会」の皆さんが参拝」
若葉研修会3日目には、班別法座と諸堂参拝が行われました。
班別法座では、班ごとに日頃の活動の様子や悩み疑問を話し合いました。個人的には、活動の最初どのようにどのように人を集めたのか、
自然消滅を覚悟したのか、など活動の始め方を伺いたかったので、それについて寺庭の先輩方に質問しました。いろいろな意見を伺うことができ、
今後の活動に役立てていきたいと思います。
また、諸堂参拝では、(説明するまでもないことですが)知恩院の諸堂を知恩院のお坊様の案内で参拝しました。知恩院七不思議を見たり、
江戸時代の襖絵、うぐいす張りの廊下を歩いたり、皆さんとあーだこーだガヤガヤワイワイと楽しいものでした。
研修中、移動をするときは必ず行道(1列に並んで合掌、
お念仏を称えながら歩く)となります。食事に行くときは同じ建物なのでまだいいのですが、
お勤めや帰敬式などのために知恩院に向かうときには坂を登るので、とても大変でした。普段なら何ともない坂なのですが、
声を出しながらなので息が続かないのです。ただ、先導してくださったお坊様も息が切れていたので、(私はいつもお坊様のすぐ後ろを歩いていましたので、その様を見てしまいました・・・フッ)
少し安心しました。
食事をいただくときにも作法が決まっていて、食前には食前のことば、次いで同唱十念、食後には食後のことば、
同唱十念を全員で称えます。私たちの生命は全て他の生命によって生かされています。それを忘れることのないよう、
そして感謝と慈悲をもって大切にいただく為にこのようにお称えするのです。
日頃の食卓で多くのひとがこの言葉を称えるだけでも、
現在稀薄になりつつあるといわれている生命に対する意識が多少なりとも変わるのではないかと感じました。
その他にも、朝のお勤めのときに痺れて痛い足で一所懸命正座をし続けていた若いカップルのことなど、
お伝えしたいことがたくさんあるのですが、そろそろご報告を終わりにしたいと思います。
この研修会のために様々なご尽力をいただいた各所の方々に感謝申し上げます。また、 この同じ時にこの同じ場所に集まったことも阿弥陀さまとの御縁があるからこそと思っています。短い間でしたが、 仲良くしていただいた他の参加者の皆さまにも感謝申し上げたいと思います。
文/副住職寺庭

2日目の夕方、全ての講義を終え、参加者全員で帰敬式を迎えました。
帰敬式とは、阿弥陀さまの前で弟子となったことを報告し、
この先その教えを守りながら仏弟子としてそれに恥じない生活を送ることを誓う儀式のことです。
3月末の京都、帰敬式が始まる頃はずいぶん日も落ち、薄暗い中、宿舎を出発しました。1列に並び、
お念仏を称えながら知恩院につづく坂を登ります。(大きな声を出しながらですので、これが結構きついのです。)
知恩院本堂隣の阿弥陀堂が帰敬式の会場です。
阿弥陀堂前に並び、ひとりひとり名前を呼ばれてお堂に向かいます。中にはいるまでにお香で身を浄め、
香象を跨ぎます。(後でわかったことですが、わたしはどうやら跨ぐときの足を左右間違えたらしいのです・・・。大丈夫でしょうか・・・。)
入口でロウソクを受け取って、中へ。阿弥陀堂の中は真っ暗で、阿弥陀さまの前にあるロウソクだけが唯一の灯りです。
お坊様たちに導かれて所定の座につき、正面を仰ぐと、1本のロウソクの灯りのなかに浮かぶ阿弥陀さまが、
こちらに優しく微笑みかけていらっしゃいました。
全員が入堂し、知恩院執事長佐藤諦学上人のご発声で帰敬式が始まりました。
始まって間もなく誓願の文(せいがんのもん)の宣誓がありました。私はジャンケンで負けて第1班の班長になっていて、
なおかつ例年第1班の班長が誓願の文を読み上げることになっているということで、貴重な体験をさせていただきました。
意外と緊張せずに落ち着いて読むことができました。文の最後には、
私たちの世話をしてくださった冨永上人様が美しい字でお寺の名前と私の名前を書いてくださっており、とてもありがたく思いました。
その後、仏前のロウソクから分けていただいた灯りを各々のロウソクに移す献灯が行われました。40本ものロウソクに灯りがともされ、
阿弥陀さまの前の大きなロウソクの周りに置かれたさまはとても美しいものでした。習ったばかりの聖歌を全員で歌い、ありがたいお話を拝聴し、
お念仏を称え、無事に帰敬式を終えることができました。
阿弥陀堂を出ますと、とっぷりと日も暮れていました。足下もよく見えない中、来たときと同じように参加者全員1列に並び、
お念仏を称えながら坂を下り、宿舎へ戻りました。宿舎に戻ると、今まで真っ暗なところにいましたので、建物の灯りがとてもまぶしく、
緊張もとけて少し疲れも感じましたが、何かホッとしました。皆さんもどことなくホッとしたご様子でした。
続く・・・ 文/副住職寺庭
この連載の文筆責任者である副住職寺庭が、なんと、原稿を落としてしまいました。
楽しみにされていた皆さまには、わたくし副住職が替わりに謝罪申し上げます。

申し訳ございません。
我が寺庭は、6月16、17日の関東ブロック浄土宗寺庭婦人会総会までには、あと2回の原稿を書く予定となっています。 わたしが思うに、どーでしょうか?出来るでしょうか?なんとも言えませんが、次回(第5回)、そして最終回(第6回) を気長にお待ちいただけたらと思います。
九州に形成された鎮西派教団の教線を鎌倉に進出させたのは現実的には聖光の弟子良忠であるが、その教線を関東一円、
東北へ推し進めたのは良忠門下のいわゆる関東3派の派祖たる良暁、性心、尊観であり、
さらに一転して京都へ西進さしたのは京都3派の派祖である慈心、然空、道光等であったといえる。
道光は鎌倉の人で文永9年(1272)頃に京都に移住したが、入れ替りに然空と慈心が鎌倉に下つて良忠の教を受け、さらに建治2年
(1276)に良忠を京都に招請し、良忠を中心に道光、然空、慈心等による活発な弘教がなされた。
宗祖滅後半世紀をへて鎮西派教団の京都進出が始まったわけである。
この頃京都では法然の流れを汲む者の中で異議が並び立ち、相互に是非を争っている状態であったが、教団として勢力のあったのは、 証空の門流から成る西山派であった。このような状態の京都へ何一つ地盤を持たぬ鎮西派が教線を拡張しようとしたのである。 彼等がとった進出の方法は、自派が祖教を守り正統の宗義を相承していることを証明するにあった。
道光の編纂したごとく『漢語灯録』『和語灯録』は序文によると、
門徒中異説紛々として各各師説と称して自義を主張しているために迷いやすくなっているのを憂い、祖教を守らんが為に遺文を集めるとあり、
宗祖の古き跡をたずね、近代の新しい道(異議)を捨てんと思うその態度を表明している。
そこには正統の義を継承していみのばわれわれでなくてはならないという意識が底に流れているのがわかる。また、
隆寛が宗祖の伝燈者たることを主張した『明義進行集』の撰述時期と相前後する弘安7年(1284)に書き上げられている『聖光上人伝』は、
聖光は宗祖から宗義を皆伝した旨の自筆書状を送られたことになっており、
道光はもし宗祖が聖光に教授しなかったならば法は滅したであろうと述べている。つまり,
聖光は宗祖から正統の義を相伝した後継者であることが強調されている。
また、さらに弘安10年(1287)に良忠が没すると、すぐに『然阿上人伝』を著わし、 良忠が宗祖から浄土宗義を受けた聖光からさらに相承の義を相伝したことを主張している。そのことはすなわち宗祖から聖光へ、 聖光から良忠へと次第する鎮西派の法系こそが正統で、その相承の義が祖教であることを主張し、鎮西教団そのものの正統性を宣言したのである。 このことは既に良忠が自ら『三代の相承』と述べているところにも見られる。ここに聖光を二祖とし、良忠を三祖とする法統が成立し、 実際にはに京都に進出した鎮西教団によって樹立されたものであった。
宗祖-聖光-良忠の正統性を強調した鎮西派の人々はさらに、宗祖-源智-蓮寂と次第する法系(紫野門徒)との接近を図った。
源智は宗祖の有力門弟の一人であったが、その法系は『法水分流記』にも源智-蓮寂-道意としか出ていないように振わなかったが、
源智以下いずれも宗祖門下にとって関心事である宗祖の遺跡を守っていたという事実があった。すなわち三人とも賀茂の河原屋
(百万遍知恩寺の前身)に居住していたにも関わらず、源智-蓮寂の法系は門流の争いには超然として宗義宗団的に無色であった。
この法系に対して嘉禎3年(1237)源智が聖光に書を贈り、法然上人の正統伝持を学んだことや、
良忠と蓮寂が東山赤築地で宗義を校合し異途なきことを確めたという話も伝えられている。いずれも史実と考えられないが、
このような話を作り出した者の意図がどこにあったのか、またその教団的背景がどのようなものであったかは想像できるところである。正確には、
鎮西教団は宗祖-聖光-良忠という法燈を確立して、独自性を保ちながら、他方で宗祖-源智-
蓮寂の法系と結びついて京都での足場を固めたのである。
鎮西教団の京都進出の過程は、知恩寺の歴代を通してうかがうこともできる。知恩寺の歴代は、宗祖-源智-蓮寂と次第して、道意、 智心、如空へとつづく。道意は蓮寂に嗣法し、また良忠にも宗要を受けたと伝えられ、如空も慈心と良忠から宗義を相伝したといわれているから、 鎮西派進出のようすが現われており、やがて鎮西派で育った人が住持するようになる。知恩寺8世の空円は慈心について得度し、 良忠に師事した人であった。このように、鎮西派は諸派分立する京都へ入り、次第に地歩を築き上げていったのである。
鎮西派の京都進出は成功し、やがて浄土宗を代表するまでに発展した。鎮西派がこの様に教団的に成長していったのは、
この派が京都に入る以前からすでに開始してい自宗寺院の建立ということにその一因があると考えられる。他の派がまだ他宗寺院によりかかるか、
或は衝をすみかとしていた頃に、一歩進んで自宗の道場や寺院を持って布教を始めたということは、一方では聖道門教団の弾圧を防ぎ、
一方では積極的かつ持続的な伝道を可能にしたのである。浄土宗寺院団の胚芽は鎮西派にあったと言える。
*本文は浄土宗宗務庁教学局発行『浄土宗史』より抜粋編集したものです。
宗祖のお弟子たちには多くがいるが、『私聚百因縁集』(愚観著)や『浄土法門源流章』(凝念著)によれば、以下の五流があげられ、 各々が教義をたて、門流を競い合っていたとされる。
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聖光房弁長
(1162-1238)
筑後の善導寺を本所とし、その地に因んで鎮西義と呼ばれる。滅後590年に仁考天皇より「大紹正宗国師」の諡号を賜った。
浄土宗2祖。
出身は香月氏の系統で筑前遠賀郡、宗祖の門に入ったのは、建久8年(1197)である。幼少の頃より天台の教学を学び、
寿永2年(1183)、22歳で比叡山の宝地房証真に就いて修学し、30歳にて油山の学頭となった。32歳のとき、
舎弟三明房の不幸に遭遇し、深く世の無常に驚き、このとき以来ひとえに心を西方へ寄せたと伝えられている。
建久8年(1197)、明星寺塔の本尊を迎えるために上洛し、その仏像の完成を待っている間に宗祖と法縁を結んだ。仏像が完成した後に、
一旦は鎮西に帰ったが、建久10年(1199)再び宗祖の房に帰参し、6年間に渡り宗義を学び、『選択集』の相伝を受けた。
以来、聖光上人は新たなる使命感に燃え、随所に法を説き、寺院を開創した。伊予、中国、筑前、筑後、肥後などその行跡は各地に広がった。
そして、建保5年頃にその教化の根拠地を善導寺に置いた。
聖光上人の弟子には九州の者が多いが、主な弟子には宗円・聖護等がいた。宗円は天福元年に入宋し、
善導大師の弥陀義を求めたが得ることができなかったため、盧山に赴いて慧遠の宗風を受けた。
帰国後は浄土宗蓮社号の始まりである白蓮社と号し、聖光上人に師事した。また、聖護は檀越である草野氏の出身で、
その一生を聖光上人に常随することに専念した。
(系譜) 聖光 ┬ 良忠
├ 宗円(白蓮社)
├ 敬蓮社 ─ 宝蓮社
├
教阿
└
聖護
『末代念仏授手印』一巻
『浄土宗要集(西宗要)』六巻
『徹選択本願念仏集』二巻
『認知浄土論』一巻
『浄土宗名目問答』三巻
『念仏名義集』三巻
『念仏三心要集』一巻
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成覚房幸西
(1163-1248)
宗祖の門に入ったのは建久9年(1198)であり、 七箇条起請文にも署名をしている。
宗祖の生前に一念の新義をたて、宗祖の滅後も一念義をもって盛んに教化した。光明房の書によって、
宗祖にその一念義を停止されるといった事態もあった。
幸西の一念義は、天台義を利用して浄土教の特殊性を高揚したものとして注目される。、
凡夫の信心が仏智の一念に合致すれば決定往生疑いないものであり、一念の他に更に多念を必要としないというのが幸西の考えであるが、
誤解されると低劣な方向に堕落していく危険性を含んでいる。それ故、宗祖は度々訓戒を与えたが承諾はしなかった。しかし、
建永元年(1206)に一念義の行空が十戒毀犯の業を勧めた罪を興福寺に問われ、仕方なく宗祖は幸西を破門にしたという経緯がある。
一念義は先に述べたとおり誤解される面もあったが、多念相続を否定するが故に、特に在家庶民には受け入れられていたようである。
幸西の弟子は、薩生、聖達、そして時宗を開いた一遍へと続いている。
(系譜) 幸西 ┬ 薩生 ─ 聖達 ─ 一遍
│ *後に証空に帰す
├ 入真 ─ 傾心
├ 明信 ┌ 永信
├ 善性 ┴ 仙才
├ 勧信
└ 了智 ─ 了教
『京師和尚類聚伝』一巻
『玄義分抄』一巻
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長楽房隆寛
(1148-1227)
藤原資隆の三男に生まれ、比叡山へ登った後に、叔父皇円につき、範源法印に受法し、慈円の門弟となった。天台の学問に深く、
あわせて浄土宗を学び、元久元年には宗祖より『選択集』を付属されている。
隆寛の教義は、平素多念の念仏を集積した功によって、臨終に業成し断証して往生するというものである。
多念が強調されるため多念義と称せられる。また、居所によって長楽寺流ともいわれている。
嘉永2年に、並榎の定照の『弾選択』を『顕選択』にて論破したことから嘉禄の法難が起こり、陸奥に配流された。実際には、
隆寛は80歳に達していたため、陸奥へは門弟の実成房が赴き、隆寛は相模国飯山に移った。弟子たちが憂慮したとおり、
隆寛はその年の10月に入寂した。 隆寛の墓は現在、飯山の光福寺にあり、山門前には「浄土宗多念義派本山」
と刻まれた石柱が立てられている。
門弟には、智慶、敬西(信瑞)、願行、敬日等がおり、智慶は関東出身で鎌倉に長楽寺を開き、願行は鎌倉に理智寺を開いたり、
名越安養院を開創し、常州に赴いている。
(系譜) 隆寛 ┬ 智慶 ─ 隆慶 ┬ 信教 ─ 寛海 ─ 理観
├ 敬西 └ 能念 ─ 観念 ─ 本覚 ─ 観覚 ─ 覚玄
├
願行
├
圓満
├
信瑞
├
信楽
├ 了圓 ─
如阿
└ 敬日 ─ 慈信 ─
道圓
『顕選択』
『一念多念分別事』一巻
『具三心義』二巻
『散善義問答』若干巻
『極楽浄土宗義』二巻
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善恵房証空
(1177-1247)
証空は加賀権守親秀の長男として生まれ、久我内大臣通親の養子として育てられた。宗祖の門下となったのは建久元年(1190)であり、
宗祖入寂後は居を小坂から慈円に譲られた西山往生院(現、三鈷寺)に移り、著述、講義、教化に勤めた。また、
天台の願蓮について天台学を学んだともいわれている。
証空の教義は、宗祖の廃捨した定散の諸善が弥陀名号の功徳であり、
定散諸善を総括して弘願に帰入する弘願一行の念仏で往生を得るという考えである。その本所によって、小坂義とも西山義とも呼ばれる。
定散諸善行を否定せずに観経を重用したため、伝統的な天台浄土教の影響下にあった貴族階級へ受け入れられ、
多の門流より貴族的となっていった。それ故、専修念仏弾圧の手も証空およびその一門には及ばなかったのである。
門弟には、俊才が多いことで知られており、一番賑わった浄音(西谷流)、証恵(嵯峨流)、円空(深草流)、証入(東山流)の4流に、了音
(六角義)と示導(三鈷寺本山義)の2流を加えて、西山六流と呼ぶ。
幾多の変遷を経て、現在は、西山義の西山浄土宗(粟生野光明寺)、浄土宗西山禅林寺派(禅林寺永観堂)、そして深草義の浄土宗西山深草派
(誓願寺)の3派となっている。
(系譜) 証空 ┬ 証恵 (嵯峨流) ┬ 円道
│ └ 覚道
├ 円空 (深草流) ─ 顕意
│ 浄音 (西谷流) ┬ 観智 ─ 行観
│ └ 了音 (六角義)
├ 証入 (東山流) ┬ 覚入
│ ├ 智道
│ ├ 証仏
│ └ 観日
├ 遊観 ─ 玄観 ─ 示導(本山義)
└ 薩生 ─ 聖達 ─ 智真(一遍)
*
時宗を開く
『観経疏他筆抄』十四巻
『観経疏観門義』二十一巻
『観経疏大意』一巻
『往生礼讃観門義』十巻
『当麻曼荼羅註記』十巻
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覚明房長西
(1184-1266)
讃岐国西三谷に生まれ、建久3年(1192)上洛し、俗典を学んだ。建仁2年に宗祖の弟子となり、
宗祖入寂後は諸学匠について諸宗を学んだ。しばらくは、三谷に戻り浄土の教を説いていたが、再び上洛し、洛北に九品寺を開いて広く講義した。
長西の教義は、天台の教えの影響を強く受けており、
念仏本願のほかに諸行もまた本願であるため所修の業によって皆報土に生まれるという考えである。
諸行をも本願とするといった考えから諸行本願義、もしくは本所によって九品寺流とも称された。
門弟には、澄空、道教、阿弥陀、空寂等がおり、道教は関東で、空寂は甲州で教えを広め、阿弥陀は十六定善義を立てた。また、
凝然も長西から講説を受けたといわれている。
(系譜) 長西 ┬
澄空
├ 道教 ─ 性仙 ─ 蓮証
├ 証忍 ┬ 西覚
├ 覚心 ┴ 覚阿 ─ 欣忍
├ 阿弥陀 ─ 禅心
└
空寂
『選択集名体決』一巻
『念仏本願義』一巻
『観経疏光明抄』十八巻
『浄土依憑経論章疏目録(長西録)』
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また、これら5流の他にも多くのお弟子たちがいた。すべてを網羅することは難しいため、代表的なお弟子のみを挙げてみます。
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法蓮房信空
(1146-1228)
信空(白河門徒)は久安2年(1146)に生れ、保元2二年11才の時叡空の室に入って剃髪し、25才の法然上人とは法兄弟となり、
いつしか師弟の契を結び、以来上人に常随、67才で上人と死別し、安貞2年(1228)9月に83三才で寂した。
信空は法然上人に56年の長きにわたって随従した最高足であったが、幸西や隆寛のように積極的な教化者でなく、かつ高齢でもあったのため、
教団の指導権は他に譲らざるを得ない状況であった。宗祖とは特別の関係があったため、
信空をもり立てようとする動きが信空派の弟子の間におこってはいるが、その勢力は第三者をして注目さすほどのものまでには至らなかった。
信空は生涯を宗祖への奉仕に尽した人であった。
(系譜) 信空 ┬ 明禅
└ 信瑞
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勢観房源智
(1183-1238)
出自については諸説あるが、平師盛の子であるという説が有力である。源智(紫野門徒)
はその出自を常に秘匿していたところからも想像できるところであり、最初は九条兼実の計らいで、天台座主慈円のもとに預けられた。しかし、
1年もしないうちに政変により九条兼実は失脚し、慈円は天台座主の座を追われることとなったため、宗祖のもとへ帰すこととなった。以来、
源智は正治2年(1200)に感西が寂するまで感西のもとで学び、以後は宗祖の秘書的な役割を務めながら教学を学んだ。
それ故に、教義の弘通などには消極的であったと考えられていたが、
昭和49年(1974)に滋賀県信楽町の玉桂寺(真言宗)より発見された阿弥陀像とその体内に修められていた源智書の「敬白書
(阿弥陀像造立願文)」と「結縁交名録」により、その評価は一変した。
建暦2年(1212)に奉納されたこの阿弥陀像の願文の内容は、
海よりも深く山よりも高い宗祖の恩徳に対する感謝と同時に収めた数万人の姓名もまた宗祖の導きを受けられるよう願う、といったものである。
「結縁交名録」には、源平の名だたる武士たちや、名のみの者たちなど、近畿から中国、東海、北陸、越中、東北、蝦夷にまで及んでいる。
源智ひとりではなく、源智の呼びかけで多くの者たちが動いたのであろうと思われるが、これだけの機動力を教団が持っていたことは驚きであり、
それを動かした源智の指導力もあったということは驚くべきことである。
(系譜) 源智 ─ 蓮寂 ─ 道意
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真観房感西
(1153-1200)
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禅勝房
(1174-1258)
湛空
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親鸞
親鸞のお弟子たちは10数名いたが、なかでも顕智より続く門派は、安土・桃山時代の蓮如(本願寺中興)、実如、教如の時代へと続く。
(系譜) 親鸞 ┬ 顕智 ─ 如信 ─ 覚如 ─ 慈俊 ─ 善如 ─ 綽如 ─ 巧如
├
如覚
└ 源海