●「万治の石仏」
下諏訪町にある諏訪大社下社春宮の西側の砥川という川を渡り、少しばかり北へ遡ると、 田畑の中に大きな石の上に首だけ乗せた石仏が現れる。胴体の右側には「南無阿弥陀佛」、 「願主 明誉浄光心誉廣春 万治三年(1660)十一月一日」と刻まれている故に、「万治の石仏(まんじのせきぶつ)」と呼ばれている。
下諏訪町の案内によると、諏訪大社下社(春宮)に石の鳥居を造る際、
この石を材料にしようとノミを入れたところ、傷口から血が流れ出したため、
石工達は恐れて仕事を止めてしまったという(そのノミの跡は現存)。が、その夜、
石工の夢枕に上原山(茅野市)に良い石材があると告げられ、調べてみるとそこに確かに良材を見つけることができ、鳥居は完成した。
石工達は、この石に阿弥陀如来を祀って記念としたとという伝説があるとのことである。
*平成13年11月9日参詣

ここ阿弥陀寺は浄土宗寺院であり、正式には法国山阿弥陀寺という。慶長3年(1598)、
弾誓上人の開山であり、
本尊は本堂裏山の板状節理の岸壁がそそり立つ岩場の一坪ほどの岩窟(岩屋堂)に安置してある石造十一面観世音菩薩像であり、
開山当時はこの岩窟が念仏不断の道場であったということである。岩屋堂から臨む諏訪湖とその町並はまさに景勝といえるでしょう。
数寄屋造りの茅葺の山門をくぐり境内へ足を踏み入れると、両側には白い盛り砂の白砂壇
(びゃくさだん)があり、水を表わす砂壇の間を通ることは、心身を清めて浄域に入ることを意味しているらしい。本堂には、
恵心僧都作の本尊阿弥陀如来坐像の他、観音・勢至両菩薩像、法然上人立像、萬無和尚坐像を安置している。本尊前の須弥壇(直壇)
上には、二十五菩薩を象徴する二十五の生花を散華している。方丈は桃山御陵の遺物を移築したものと伝えられ、
狩野光信筆の14面に及ぶ襖絵「桐に竹図」、「若松図」、「槇に海棠図」や、屏風の「松図」は重要文化財に指定されています。
後鳥羽上皇の管女松虫・鈴虫両姫が教化をうけてひそかに出家する事件が起こり、
これに激怒した後鳥羽上皇は、法然上人を讃岐へ流刑、弟子である親鸞聖人は越後国へ流刑、そして住蓮・安楽は死罪としたのです。
それを知った松虫・鈴虫両姫は自害したという「建永の法難」の悲劇の舞台となった草庵です。
嵯峨釈迦堂と親しまれている清涼寺は、山号は五台山で浄土宗寺院である。
本尊の釈迦如来像は釈迦37歳の生身の像として中国で刻されたもので、体内には絹で作られた五臓六腑や経文等が収められている。
本堂横にある石碑は豊臣秀頼の首塚で、
昭和55年大阪城の三の丸跡地の発掘で出土した秀頼の首を秀頼再興の由緒を持つ当寺で祀ったものです。
嵯峨野の鬱蒼とした竹林の中を歩くこと暫し、阿弥陀如来像、
釈迦如来像の二本尊を安置していることから、二尊院の名で呼ばれてる小倉山二尊教院華台寺が開ける。
山門を抜けると「紅葉の馬場」と呼ばれる名所、
緩やかではあるが200メートルほどの坂が待ち受ける。藤原忠平の歌「小倉山峯のもみじ葉心あらば今ひと度の御幸またなん」
が有名である。
坂を登り切り、本堂にあがると、念仏停止を求めた天台宗徒に対し、
法然上人が天台座主に呈した制戒を記した「七箇条御誓文」が陳列してあった。御誓文の後に続き法然上人をはじめ、
百数十名ものそうそうたるお弟子たちの署名が続いている。この中に、
当山開山の熊谷蓮生法師の署名もあること覚えておいていただきたい。 本堂右手の急な階段を登ると、
湛空が建立したや法然影像を安置した足曳堂(法然上人御廟)が閑静な嵐山の町を見渡すように存している。また、
この階段途中の五重塔は「法然五重塔」と呼ばれ、これもまた湛空が建立したものである。
「くろ谷さん」の愛称で親しまれている金戒光明寺は浄土宗五大本山のひとつで、
承安5年(1175年)春、法然上人が開かれたお寺です。正式名は紫雲山黒谷。比叡山にて厳しい修業と学問の日々を過ごし、
ようやく辿り着いたお念仏の教え、この教えを皆に広めようと決意した場所、これがここ金戒光明寺なのです。それゆえ、
ここ金戒光明寺は、「浄土真宗(じょうどまことのしゅう)発祥の地」といわれています。
山門脇には蓮池院(熊谷堂)があります。名前の通り、
ここ蓮池院は熊谷直實が出家し法力房蓮生法師となって修行した場であり、一角には「熊谷蓮生供養塔」と「平敦盛供養塔」
が法然上人御廟を挟む形で建てられています。
また、黒谷山内には西雲院という浄土宗寺院があります。ここには、前述の通り、
法然上人が布教を決意した際に腰掛けたといわれている「紫雲石」なるものがあります。
