2007年10月17日

●「欣浄寺」

 法然上人25霊場の第12番となっている欣浄寺は三重県伊勢市にあります。
 法然上人が浄土宗を開宗の年、1175年に、念仏が広く伝わることを願って伊勢神宮に参篭された時の遺跡です。
 ここに籠もりましてお念仏をお称えし続けること7日目の朝、法然上人の前に大きな日輪が現れます。その中央には、6字の名号 (南無阿弥陀仏)が金色に燦然と光を放っていました。法然上人は、これを見て、念仏の教えは神の意にもかなっているいると大変喜ばれ、 自らその様子を写し、末代の証とするため、外宮に納められました。「日輪名号」と呼ばれております。
 その後、この日輪名号は宝庫に保管されていましたが、その宝庫が兵火で焼けたとき、 この名号のみが火中より飛び出して、笹の葉にかかって光を放っていたと伝えられていることから、「笹葉の名号」 とも称されています。また、さらには神社混淆の大日輪であることから、「本迹不二の御名号」とも呼ばれ、 欣浄寺に納められています。当時は神仏習合、本地垂迹説などが流行った時代ですので、こういったふうに呼ばれていたのでしょう。
 また、寺宝には法然上人御自作の「法然上人満月の像」も伝えられています。法然上人が四国へ流罪となったとき、 昔日に伊勢神宮に参詣し念仏の不可思議を体験されたことを思い出し、神恩奉謝も流罪の身では何もできないので、 せめて自ら木像をつくって伊勢神宮に納めようとしたのです。ところが、 それがなぜか伊勢へ送られる途中に大阪の専念寺におよそ400年もの間、留まっていたのです。天正19年正月に専念寺のある僧(頂誉上人) が「伊勢欣浄寺へ像を送るべし」との夢のお告げを受け、その法然上人の像を欣浄寺へ納めたと伝えられています。 そのときに月光が差したということから「法然上人満月の像」と呼ばれております。
 この欣浄寺は、もともとは外宮と内宮の間の山の上に建っていたが、仏が神を見下ろしていると思ったのであろうか、明治初期の神仏分離、 廃仏毀釈運動で破壊されたため、現在地に再建されたとのことです。


「やわらくる、神の光の影みちて、秋にかわらぬ、短か夜の月」

 このお歌の意味は、以下の通りです。
「阿弥陀さまをはじめ、仏さま・菩薩さまたちのお慈悲は何としても人々を救いたいと、煩悩の塵ないまみれたこの世界に姿を変えて現れ、 神の姿となって私たちを守り、導き、お念仏を勧めておられます。今、その神の御威光が満ち満ちています。夏の夜ではあるけれど、 月は秋のようにこうこうと輝き、その月の光の中で、神の御威光、すなわち阿弥陀さまのお慈悲の光を身と心でいただき、 夜の更けるのも忘れて一生懸命お念仏をお称え続けました。」


 阿弥陀さまの光というもの、これにつきまして皆さまがよく耳にされますお経で、『観無量寿経』というお経の『真身観文』 という段がございます。このお経は、お釈迦さまがお弟子さんたちに説かれたお話で、阿弥陀さまのことについてお話しされています。 阿弥陀さまはどんな方か?阿弥陀さまはどんなお姿なのか?阿弥陀さまのお力は阿弥陀さまのお考えは?阿弥陀さまの願いは? こういったことが説かれています。

 この中に、「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」という一節がありますが、 漢文でお読みしましてもわかりづらいと思いますので、読み下してみますと、「阿弥陀如来の光明は、遍く十方の世界を照らして、 念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」となります。
 阿弥陀さまの光は、十方の世界を照らしている。喩えるなら、月の明かり、月の光に喩えられます。月の明かりというものは、私たち、 男も女も、大人も子供も、また富める者も貧しい者も、関係なく照らしています。たとえ普段はは気がつかなくても、 私たちが月の明かりを見ようと顔を上げさえすれば、いつでもどこでも私たちを照らしてくれます。 阿弥陀さまの光はこの月の明かりと同じなのです。私たち自分自信が阿弥陀さまのことを心に抱くとき、 必ず阿弥陀さまは私たちの方を向いているのです。いつでもどこでも、日本中どこにいても、世界中どこにいても、 阿弥陀さまはつねに私たちの方を向いております。
 ですから、「阿弥陀さまお願いします」と、「南無阿弥陀仏」と声に出してお念仏を称える、そうすれば、 いつも見ていてくれているのですから、必ずその声をお聞きになっております。その声は間違いなく阿弥陀さまに届いているのです。 「念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」、お念仏を声に出して称える者を摂取する、つまりすくい上げる、そして捨て去ることはない、 救い漏らすことはない、必ずすく上げますよ、ということをおっしゃっているのです。
 
 阿弥陀さまの一番の願いというのは、私たちがこの世界で一生を終えたとき、次に生まれる世界、これは迷い・苦しみの一切無い世界、 西方極楽浄土の世界、ここに来て欲しい、生まれて欲しいというのが、阿弥陀さまの一番の願いなのです。
 私たちはこの阿弥陀さまの願いに乗っかって、西方極楽浄土の世界に往生させていただくということなのです。そのための約束事が、 「南無阿弥陀仏」と「阿弥陀さまお願いします」とお念仏を声に出してお称えすることなのです。
 このお歌のように、夏であっても秋と変わらぬほどに月の光は降り注がれている。阿弥陀さまは、 私たちのことをいつでも変わることなく見ていて下さっているのです。

 

2007年10月16日

●「樹敬寺」

 樹敬寺は、1195年、俊乗坊重源上人によって開かれた浄土宗の寺院で、三重県松阪市新町にあります。
 重源上人は、治承4年(1180)法然上人の推挙により、東大寺の大仏殿復興大勧進の職を拝命され、伊勢神宮の日輪御名号の縁にならい、 神宮に37日間祈願し、方寸の玉を授けられ大勧進巡錫をされて、大仏殿落慶供養された方です。重源上人は、 この功徳をもって国中に七ヶ所の念仏同所を建立され、樹敬寺はその中の一つであります。
 現在の本堂は、明治35年に再建されたものですが、境内には、本居宣長・春庭(長男)・壱岐(妻)のお墓があり、 国指定史跡となっています。

 本居宣長という方は、医師であると同時に、18世紀最大の日本古典研究家と言われております。 代表著書には、『古事記伝』などがあります。
 ここ樹敬寺は本居宣長家の菩提寺でありまして、祖先や子孫合わせて26基のお墓があります。記録によりますと、 本居宣長は仏教に対して批判的な説を唱えておりましたが、その半面に自分の家の仏事は欠かすことなくお勤めされていたとのことです。 参考までに申し上げますが、本居宣長の父親は夢の中で仏に出合った喜びを絵に描かせており、母は善光寺で得度しております。 また実の兄は増上寺真乗院主を勤めた高僧です。
自分自身も19歳のときに、この樹敬寺で五重相伝を受けております。

 

●「専修寺」

 ここ専修寺(せんじゅ、三重県津市一身田町2819番地)は、浄土真宗高田派の本山となっています。 高田派に所属する寺院は全国に600余ヶ寺あるとのことです。
 この専修寺さんは、元は2箇所にありまして、ひとつはここ津市の専修寺、もうひとつは、下野国(いまの栃木県です)にありました。 この栃木県にありました専修寺が大元であります。

 開かれたのは法然上人のお弟子であった親鸞さんです。鎌倉時代、1226年頃のことです。 承久の乱を過ぎた頃ですので、北条氏の執権政治が定着し始めた頃です。ここの地名が「高田」という地名でしたので、 このお寺に住持する門弟や信徒たちの教団のことを高田教団と呼んでいたそうで、そのまま浄土真宗高田派となったとのことです。
 津市の専修寺は、第10世の真慧上人という方が、1465年頃に伊勢国内の中心寺院として建てられたものですが、栃木の専修寺が、 戦国時代に焼失されてしまい、そこに住持するものたちは、これから参ります津市の専修寺に住まわれるようになったそうです。それ以来、 ここが本山としての機能を果たすようになったわけです。
 ちなみに、焼失した栃木の専修寺も江戸時代には再建され、現在もございます。

 この専修寺さんの境内には数多くの伽藍が建っておりまして、中でも一番大きな建物であります御影堂は重要文化財となっております。 畳七百二十五枚の広さということでして、国内有数の大きなお堂です。何度か火災に遭っておりまして、 現在のお同は1679年に落慶されたとのことです。現在解体修理中とのことですので、見ることができるのかどうかちょっとわかりません。 また、国宝に指定されています西方指南抄などの宝物も所蔵して現代に伝えてられています。

 もうひとつ、この専修寺の見物としましては、この御影堂に並んで建てられております如来堂です。「証拠の如来」 と呼ばれる阿弥陀如来立像を本尊としており、この如来堂がここ専修寺さんの本堂となります。 広さは御影堂に比べると半分にも満たないのですが、阿弥陀如来の仏殿にふさわしい華麗な建築になっております。落慶の1748年とのことで、 平成2年に大改修が施されております。