2007年11月26日

●「浄詠会」

 本日、浄土宗滋賀教区浄詠会のみなさんが来寺されました。浄詠会とは、御詠歌を通じて阿弥陀さまの教え、 お念仏の教えを広くみなさんに知っていただくための集まりです。 蓮生法師廟のご参詣、法師関連の品々をご覧いただきました。また、 本堂内にては「蓮生法師御和讃」をお唱えいただきました。

 

2007年11月21日

●「横蔵寺」

 横蔵寺は、岐阜県のJR大垣駅から車で40分ほどの揖斐郡谷汲村横蔵地区にあります。 (樽見鉄道谷汲口駅からバスもあります)この時期(11月1日から30日)はもみじ祭と称され、 近くの華厳寺とともに賑わいを見せていました。

 山号は両界山といい、延暦20年(801)に、伝教大師最澄が自作の薬師如来像を祀り開かれたお寺です。 織田信長により比叡山が焼き討ちされた後には、この横蔵寺の御本尊が比叡山根本中堂の本尊となりました。
 美濃の正倉院とも称されるほどの幾多の重要文化財である仏像類とともに、ここ両界山には妙心上人の舎利仏、即ちミイラが祀られています。 天明元年(1781)、横蔵に生を受けた妙心上人は、両親の没後、仏道修行のため巡礼の旅に出ました。西国、坂東、秩父の三十三ヶ所、 四国四十八ヶ所を巡り、信濃の善光寺大勧進にて受戒されました。その後、富士講の先達をつとめ、 文化12年(1815)に山梨県都留郡の御正体山の洞窟で入定されました。上人の遺体は村人たちによって厚く祀られていましたが、 明治23年に出生地であるこの横蔵寺に帰られ、祀られることとなったのです。

 さて、熊谷蓮生法師との関係は?と申しますと、 一部に伝えられている縁起によるとこの横蔵寺中興の祖となっています。この横蔵寺、 昔は今の場所よりさらに2キロほど登った山頂付近に三十八もの坊舎とともに建てられていたとのことで、 蓮生法師宝篋印塔もこの周りにあったそうですが、現在は移動されて寺門の裏手にひっそりと建てられている。 この蓮生法師、 元久元年(1204)5月13日、横蔵寺へ立ち寄った際、棟や梁が落ちかけている釈迦堂を目にして、 その再建費用のため自ら来迎阿弥陀如来像を刻み、念仏会の本尊として持仏堂に安置した。 この旨が記された銘が胎内から発見されたこの阿弥陀如来像は「熊谷弥陀」と呼ばれています。
 この熊谷弥陀ですが、この横蔵寺再建のために非常に貢献してきたようです。記録によりますと、文暦元年(1234)、 永仁2年(1294)の開帳により本堂、本尊を修補し、文明6年(1474)の開帳では仁王門と仁王尊像の修造をしたとの銘があり、 天文3年(1534)には「奉造立弁財天」の銘が残されています。

 お天気に恵まれたこの日、帰りのときには写真のように、まさに阿弥陀さまの光かのような陽光も見られました。

 

2007年11月11日

●「直実の寺と鉄の門」

 このタイトルにあれっと感じた方はいらっしゃるでしょうか。本日付けの読売新聞紙埼玉北地域版に掲載された「彩の栞」 というコラムです。

 このコラム、何を訴えたいのかといいますと、 「今月3日に当寺に参詣でいらしたときに墓所の前の鉄門が開いていなかったことにショックを受けた」ということなのです。 その理由は御覧いただければわかりますが、この方、これまでの当寺と熊谷市との諸々のことをご存じないのかも知れません。 熊谷空襲の後のこと、境内一般公園化計画の反故、最近では、一般公開の際に御本尊・本堂内を隈無く撮影し、 それを資料に講演までされる方(当寺には断り無く、厨子の封を破ってまでして撮影されました)、数え上げれば切りがありません。 それでも一般開放すべきであると言われたら、その場合は熊谷市で管理していただき、その費用も熊谷市に拠出していただくしかありません。

 この方、こう文章を終えています。

「せっかく訪れた人を門前で突き放すような立ち入り禁止の立て札はいただけない。直実は、熊谷市のシンボル。 市のイメージダウンになりかねない。」と。

 当日、掲示板にその旨について詳しい掲示がされていなかったことは当寺の不備にて陳謝いたします。
 「直実は熊谷のシンボル」、それは結構なことです。異論はございません。ですが、当寺が一般開放するしないかが、 熊谷市のイメージを左右するとはどうしても思えないのです。なぜなら、この熊谷寺は直実の寺ではなく、 蓮生法師の開かれたお寺なのだからです。

 なぜ、「直実」ではなく、「蓮生」なのか。それを是非お考えいただけたらと思います。

 

2007年11月10日

●「直実ではなく、蓮生」

 昨今、日本では「サムライ」という言葉が流行っています。日本人は武士道の精神を思い起こすべきであるという論調が流行っています。 しかし、武士とは江戸時代でさえ、全人口の1割に満たなかったのです。ある文献によるとたった7%とも言われています。 このような僅かな数しかいなかったのに武士の心を思い出せというのも無理な話です。殆どがサムライではなかったのですから、 思い出しようも何もありません。
 それに、武士とはそんなにすばらしいものでしょうか。強きを挫き、弱きを助ける、主君のためなら命をも投げ出す、 そんな格好良くもて映やされていますが、実際の武士は違います。所領の安堵のため、地位・名誉のため、戦さでは多くの敵兵を薙ぎ倒し、 ときには親兄弟までをもその手に掛け、多くの命を摘み取るのが武士なのです。

 熊谷直実もこのひとりでしたが、彼は武士としての道を突き進むことを選ばず、有縁無縁の衆生と共に蓮の上に生まれる道を選び、 法然上人の門をたたいたのです。
 歌舞伎「熊谷陣屋」の段の最終幕で、僧形で去っていく姿があります。熊谷さんが最後に選んだ道は、所領・地位・ 名誉を守る騎馬に乗る剛々しい鎧姿の武士ではなく、心を守る、心の安住を求める墨染めの衣をまとった念仏行者であったのです。

 関西の方では、熊谷さんというと熊谷直実ではなく、熊谷蓮生と出てきます。ところが、寂しい話です。 ここ関東の地では熊谷直実公とは知っていても、熊谷蓮生法師という名はあまり知られておりません。熊谷でもそうなんです。事実、 熊谷駅前にある銅像も騎馬に乗る武者姿の熊谷直実公の姿をしております。市役所や観光協会の方達が、この熊谷寺を、熊谷直実を観光の目玉に、 などということをよく言って来られますが、この駅前の銅像を「逆さ馬」の銅像にしたほうがよっぽどインパクトがあって、話の種になり、 注目されると思いますが、どうでしょうか?


 先日、とある雑誌でこういったことを語っている方を見ました。

「熊谷直実さんの卓越した兵法(戦の仕方、攻め方などです)、これは現代でも十分通用する、これを見直していきたい、 この戦術は優れたものであって、大いに評価すべきだ、注目すべきだ」、

こう語られているのを見ました。

 私は、愕然としてしまいました。熊谷さんが願ったものは何なのか?私たちに戦争の仕方、兵法を残して、 もっと戦争をしろと願ったんでしょうか?もっと人を殺せと願ったんでしょうか?
 そんなことはありません。熊谷さんが願ったことは、共に浄土の蓮の花の上に生まれるということ、心ならずも討ち取ってしまった敦盛卿、 また有縁無縁のすべての衆生、そういった人々と共にすばらしい西方浄土という世界に往生すること、そういうことを願ったのです。決して、 戦が上手かった、人殺しが上手だった、そんなことを後世の私たちに褒めてもらいたかったのではないのです。 共に阿弥陀さまの浄土へきてほしい、そう願ったのです。


 皆さんにお願いがございます。

熊谷さんて知ってる?と尋ねられて「ああ直実さんね、板東一の剛の者ね」と、こう答える方に対して、「違うよ、蓮生さんですよ。 有縁無縁の衆生と共に蓮の台(うてな)に生まれることを願った、そのために一所懸命念仏をお称えした方ですよ」 とこう訂正していただければと思っております。