2010年09月18日

●「人は死んだらどうなるのか?」 

            誤解を生じる恐れがありますので、必ず最後までお読み下さい。

 『地蔵十王経』という経典によると、人は死んだ後、通常七回の審理を受けると説かれています。

 

 十王とは、秦広王、初江王、宋帝王、五官王、閻魔王、変成王、泰山王の七王に、平等王、都市王、五道転輪王の三王を合わせた十人の王のことを言います。

 人はその命を終えると、先ず秦広王による書類審査を受けます。そしてその審査が終わると三途の川を渡ることとなります。この川には舟渡しの者がいて、金銭六文を支払えば船に乗せて向こう岸まで渡らせてくれます。棺の中に六文のお金を入れる風習はこのことに由来します。しかし、金銭を払わないならば、自力で川を渡るしかありません。当然、着ている衣は川の水で濡れてしまいます。ナントカ川を渡りきると、奪衣婆・奪衣爺という老夫婦が近づいてきて自分の衣をはぎ取ります。そしてその衣を近くの木の枝に掛けます。川の水で濡れている衣ですので、枝は当然しなります。その枝のしなり具合で生前の罪の軽重が計られるのです。

 また、この三途の川の河原は「賽の河原」と呼ばれていて、幼くして命を終えた子供たちがたくさんいます。親より先に死んでしまったという罪のため、ここで泣きながら石をひとつ、ふたつと積んでいきます。三つめを積み終えると赤鬼・青鬼がどこからとなく現れて、積み重ねた石を崩していきます。こんなことが永遠と繰り返されていくのです。

 ちなみに、ある菩薩はこの賽の河原に現れ、「自分をこの世界の母と思え」と語りかけます。この菩薩の呼びかけに呼応して裾へとすがりついてきた子供たちをすくい上げるのが地蔵菩薩です。

 二七日となると、初江王により殺生・邪淫・妄語・飲酒・偸盗の五悪について審査がされます。この時点で決定される行き先は針の山や火の地獄となります。

 お釈迦さまの救いである『くもの糸』というお話はこの場面です。

 三七日へと進んだ者は、宋帝王による審査を受けます。ここでは、邪淫について大蛇が亡者の胸を割いて審査します。何故かここで審査されるのは女性のみです。有罪とされた者は血の池地獄へと落とされます。

 四七日では、五官王によって妄語について裁かれます。有罪人は首枷を着けられ、針のむしろに座らされます。また、舌を抜かれたり、身体を粉々に切り刻まれたりという刑を受けます。バラバラにされて息絶えこれでやっと楽になれると思うと、その瞬間に生暖かい風が吹いてきて、気がつくと生き返ってしまいます。永遠と地獄の苦しみが続くこととなります。

 五七日においては、その担当は皆さん一番ご存じの閻魔王です。裁判の道具として有名なの「浄瑠璃の鏡」を使い、その亡者の前世、すなわち生前の善悪を写し出し、有罪無罪を決めます。また、この世に残された遺族による追善供養における態度も証拠品とされるため、私たちの死者に対する心持ちが重要となってきます。三十五日にて満中陰法要を勤めることが多いのは、地獄の大王である閻魔王が決した判断に誤りはないからという理由からです。

 六七日には、変成王が現れます。部下には人間の善悪を見破れる目を持つ三つ目の鬼がいて、ここで有罪とされると釘打ちの刑に処せられます。ですが、身代わりに四十九個の餅を捧げるとこれを逃れることができるとも伝えられています。

七七日、すなわち四十九日の担当は泰山王です。ここまで来た亡者は、最終判決で六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人界・天界)のいづれかの行き先を決せられます。

 また、命終えたときからこの四十九日間は中陰と呼ばれています。死者の行き先が決まっていない、すなわちこの世にもあの世にもいない中途半端な状態にいることから陰の中にいるという意味でこの呼んでいるのです。その中陰である状態が満了したということで、この四十九日は満中陰と呼ばれています。

 ですが、このことが説かれている『地蔵十王経』という経典は中国の『地蔵経』という経典を日本に合うようにアレンジし伝えられたものです。さらに言いますと、この『地蔵経』は偽経であって、本物の経典ではありません。そもそも経典というものは、インドでお釈迦さまが説かれたお話です。この『地蔵経』はお釈迦さまが説かれたものではありません。中国でできたものなのです。お釈迦さまの真の言葉ではない、すなわちこの『地蔵経』に説かれている四十九日の考えは本当の仏教にはないものなのです。

 浄土三部経のひとつである『阿弥陀経』にはこう説かれています。「人は南無阿弥陀仏と称えていれば、その命を終えるときには慌てることなく心安らいだ状態でいられ、阿弥陀さまが迎えに来て下さる。そして、ふと気づくと浄土へと生まれている。」まさに即得往生であり、行き先が決まるまで四十九日間かかることなどありません。

 私たちが今勤める四十九日の法要は故人のご回向であることは当然ですが、私たち自身のためにお勤めすることに本当の意味があるのです。少々長くなってしまいましたので、このことについてはまた別の機会にお話させていただきます。